結社の自由と訴訟

 松竹伸幸氏が、共産党を除名処分になったとき、いくつか文章を書いたが、その後、とくに追いかけていなかった。たが、最近第二の著書を出して、党員資格の保持を求めて、共産党を司法に訴えたことを知った。おそらく、類似の訴訟もないような、新しい挑戦ではないかと思うし、人権論としても、非常に興味深いと思った。
 結局、結社の自由に関わることであるが、法論理としては「部分社会の法理」に関わることだろうと思う。
 通常結社の自由とは、ある団体(とくに政治団体)を結成したことによって、国家権力の干渉を受けない、国家にたいして、結社を禁止したり、結成に関わった人を逮捕したりすることを禁止するものである。松竹氏の除名にたいして、朝日新聞が社説で批判をしたときに、当時の志井委員長は、「朝日新聞は結社の自由を侵すのか」と非難したが、朝日新聞に、政党の結社を禁ずる権限などありえないのだから、この非難は的外れもいいところであった。

 しかし、結社の自由と関連のあることがらで、訴訟になるとしたら、それは「部分社会の法理」に関わることとして、見逃すことはできないし、また、かなりの法的難問となるはずである。私の専門分野でいうと、これまでは校則に関する訴訟で多く問題になってきたのが「部分社会の法理」である。その意味は「団体内部の規律問題については司法審査が及ばない、とする法理」というもので、その団体内部では、一般社会では許されないことでも、許されるということになっている。校則をめぐる訴訟がいくつかあったが、たとえば、以前は公立中学で、男子全員が坊主頭を校則で強制される学校が多数あり、校則が公序良俗にはんするという理由で提訴が行われたが、部分社会の法理で訴えは退けられてしまったわけである。
 しかし、現在では、そうした校則は、次第に減っているが、私は何度か、校則については、部分社会の法理は適用されないのだという主張をここで書いてきた。部分社会の法理が成立するためには、その団体のルールについて、以下のことが完全に実施されていることが必要だからである。
1その規則が事前に容易にアクセスできる形で開示されていること。
2その団体への所属が、規則を知った上で、本人の自由意思で行われること。
3団体の活動に賛同できなくなった場合には、自由に脱会できること。
 しかし、学校の校則は、この3つ条件は当てはまらないから、部分社会の法理は適用されないということである。
 義務教育学校では、本人の意思で入学するわけではなく、指定されている。 
 高校や大学、あるいは私立学校でも、校則が容易にアクセス可能になっていることは、究めて稀である。入学時点で校則を理解している生徒、学生はまずいないと考えられる。入学後に説明されるのである。
 入学は当人の自由意思であるとしても、校則がいやだから退学するという選択は、究めて困難である。オランダのように、ある学校をやめて、ちがう学校に移ることが、社会全体で保障されているような場合は別だが、日本の私立学校、高校・大学は、途中入学などは、究めてかぎられた場合しか認められない。結局、退学すれば、教育機関そのものから排除される状況になってしまう。したがって、よほど校則に不満であっても、我慢することになる。
 以上の理由から、学校の校則は、一般的な社会的感覚に適合する範囲でしか、制限を加えることはできず、社会的には認められないようなことを、校則で生徒に押しつけることは許されないと考えるべきである。
 
 では、政党はどうか。政党すべてがそうとはいえないだろうが、国会に議席をもつような政党は、上記の3つの条件は完全に満たしているだろう。だから、政党の内部規則については、司法は判断しないという、部分社会の法理は成立すると考えられる。したがって、松竹氏の主張は通る可能性が低いとひとまずはいわざるをえない。
 対応は、おそらくふたつ考えられる。
 多くの人が考えていると思われることは、そんな党はどうせ変わらないのだから、別の道を模索したらどうか。松竹氏のいうことが正しいとすれば、共産党は次第に落ち目になっていくだろう、そういう政党とともにする必要はないというものだ。つまり、法的ではなく、政治的な発想である。
 それにたいして、あくまで司法をつかってまで、復党の可能性を探るという、松竹氏自身が追求している道である。そして、氏はそれを司法によって認められることを、現在模索している。それがいいこととは氏も思っていないだろうが、党が大会において、処分を撤回しないことをきめた以上、外部の力(司法)に頼る他に道はないのもたしかであろう。
 
 さて、双方はどのような見解の対立があるのだろうか。
 事実としては、昨年、松竹氏は共産党を除名され、今年はじめの党大会に処分撤回の申請をしたが、却下されているという状態である。そして、党員資格の認定(処分の不当性)を求めて、提訴していることになる。
 処分のきっかけは、松竹氏が「シン共産党宣言」という本(党の委員長の党員による公選で選出することを主張)を文藝春秋社から出版したことが、反党分派活動であるという理由で除名を受けたわけである。「党内では、自由に意見をいえるにもかかわらず、一切党内で主張することなく、党外(出版)から党を攻撃した」という理由である。
 これにたいして、松竹氏は、以下のような点を指摘して、処分が不当であることを主張している。
1 党内で意見をいわなかったなどというのは間違いで、支部の会議で頻繁にのべており、同支部の人は松竹氏の主張を充分にしっていた。
2 党首公選制という、党の決定に反することを党外から攻撃したというが、党首公選制を党の機関で正式に否定する決定をしたことはなく、したがって、公選制を主張することは、党の決定に反することを主張しているのではなく、したがって、ひとつの意見として党外での出版をしたにすぎない。党員が出版をすることはいくらでもある。
 以上は、見解の対立に関してであるが、除名の手続については、党は正規の手順で処分を決定したとするが、
3 松竹氏は、規約上党員の処分は、その所属する支部での決定によるもので、その決定を上部が承認するものであるが、松竹氏の場合、所属支部では、まったく討議されておらず、当初から上部での審議が行われたのは、規約違犯であり、なぜそうしたから、支部での議論にすると、擁護の見解が強く、処分が不可能になるから、規約をねじ曲げたのであり、したがって、処分そのものが規約違犯となる。
 
 考えるべきこととして、2点あるように思われる。
 まず第一に、やめたいのにやめることができない、というのは、当然、部分社会の法理の前提に反しているわけだから、おそらく、訴訟の対象になるだろうが、やめたくないのに、ルールによってやめさせられたという場合である。部分社会においては、ルールは、自由にきめることができるのだから、そのルールが適正に適用されて、除名されたのならば、これまでの例でいえば、司法の対象にならない。
 しかし、第二に、除名された事例として、ルール自体が不適切に適用された場合には、門前払いというわけにはいかないのではなかろうか。一般に部分社会とされていないが、企業で、不当に解雇されたら、解雇撤回の訴訟をおこすことは一般的といえるだろう。政党は部分社会として認められているから、不当な除名でも訴訟の対象とはならないとしたら、政党と企業は、どこがちがうのだろうか。
 企業のルールは、労働基準法によって制約があるし、また、違法な就業規則や規則の違法な扱いは、当然法によって認められないから、司法の対象になるのは当然である。しかし、政党には、労働基準法のような法律はない。議会の選挙に当選し、公費を支給されて政治活動をする場合には、公費に関して、また、議員として生じることの使用について、法が規定しているから、その違犯は、民事でも刑事でも対象となる。しかし、そうした議会との関係とは切り離された、政党内部の活動については、これまで司法は関与しないことになっていた。
 しかし、現在の政党は、かなりの部分が税金によって運営されており、国民の納得のいく運営が求められることも否定できない。そして、政党で働く人にとってみれば、一種の職場でもある。松竹氏の主張するように、処分に際して、規約が不当に扱われたことが事実であるとすれば、司法による救済はあるべきなのではなかろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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