大分前のyoutubeだが、今日見たのが、とても興味深く、いろいろと考えさせられた。
日本記者クラブ主催の講演と質疑のシリーズで、文春の顧問弁護士であり、ジャニーズ裁判でも弁護人を勤めた喜田村洋一氏の話だった。裁判の過程などもあり、それも興味深かったが、テーマであるなぜ「メディアは放置したのか」について、整理して語っていた。そして、その後、質疑応答があったのだが、さらに興味深いことに、大新聞やテレビ関係者は、ほとんど質問していなかったことだ。さすがに、テーマからして、質問すらしにくかったのかも知れない。しかし、記者クラブがこうした辛口講演を実施したことについては、とてもいいことだと思ったわけである。
さて、テーマである、なぜ、メディアが放置したかについて、大きく3つの理由をあげていた。
第一に、事実が確定しにくいということがあったかも知れないという。しかし、これについては、裁判の過程を詳しく説明し、結局、性加害があったことは、最高裁が認定したのだから、事実があったかどうかはわからないということは消えたはずである。それでも、報道しなかったのはなぜか、と進んでいる。
第二がメディアに認知バイアスがあったという。そして、認知バイアスについては
・重要なことではないと考えていた。
・事実だとしても週刊誌レベルのことだと考えていた。
・芸能界のことで、そこには差別も人権侵害もあるが、それは一般社会とは関係なく、報道する価値がないと考えていた。
・ハラスメントだった。これが人権侵害という感覚は薄かった。
・被害者が男性・少年だった。
・みんなが報道していなかった。
以上をあげていた。
週刊誌レベルという点では、メディアのヒエラルヒーについて、全国新聞・NHK→雑誌・出版社→民放 という序列があるという。雑誌・出版社としても、週刊誌は低くみられていたということだろう。被害者が男性・少年だったという点では、さすがに、被害者が女性や少女だったら、当時でも取り上げられていたにちがいないと喜田村氏は語っている。確かに、以前は、ハラスメントという言葉もほとんど使われていなかったし、したがって、ハラスメントは重大な人権侵害であるという意識かほとんどなかったのは事実だ。しかし、BBCが放映した2023年には、こうしたことは、充分に人権侵害であると認識されていたから、それまでまったく無視し続けていたのは、これだけでは説明がつかない。
そこで、氏は3番目の理由をあげる。それは、とりあげると会社にとって不利益なことを事務所等から受ける危険があるということをあげている。
これが結局は、もっとも大きな理由だったのだろうと思う。そして、その点は、多くの人がすでに考えていたことだろう。だから、BBCとか国連というような外部の権威という「外的圧力」という力が及び、力関係が逆転することが、どうしても必要だったということなのだろう。
しかし、では、なぜ文春は、報道できたのか、という問題があるし、現在でも、木原問題を継続的に提起しているのは文春だけである。文春が報道し、ネットの一部が応援するという構図になっている。文春は、タレントの顔などを表紙に使わないので、芸能事務所などに忖度する必要があまりないという理由をあげていたが、それはあるにしても、やはり、ジャーナリズム精神が存在し、それに対する社会的支持もあるということなのではないだろうか。
極端にいえば、権力を監視するという意味でのジャーナリズムは、日本のメディアには稀少の存在になった。文春はその代表例といえるだろう。何度も書くが、大手新聞やテレビは、もはや情報媒体ではあるが、ジャーナリズムとはいえないと断定せざるをえない。単なる強い者の宣伝媒体に過ぎない。
よく考えると、そういう意味でのジャーナリズムのあり方が、少しずつ変化しているように思うのである。なぜ、日本の大手メディアが権力への批判的な報道ができなくなっているかは、よくいわれるように記者クラブの存在がある。記者クラブは、加盟メディアがあり、そこがそれぞれの記者クラブが置かれている団体から、部屋を借り受けて、随時記者会見が開かれるようになっており、主にそこで重要な情報を知らされることで記事を構成している。だから、刑事事件は、ほとんどが警察の記者クラブで伝達される内容をもって、記事が作られる。そして、その分、自分たちの足で取材し、調査する部分が少なくなり、伝達記事に頼らざるをえなくなるわけである。それは、記事については、公的に流されるわけだから、一応信頼できる(間違っていたとしても、記者会見でながしたほうの責任にできる)し、取材しなくてもなんとかなるので、コスト削減になるわけである。
そういうなかで、独自取材を貫き、そこで収集した内容を精査して、記事にすることは、かなりの優秀な人員と費用がかかるわけである。現在でも、文春は、それを確かに行っていると思われるのである。前にも書いたが、私自身が、職場で起こったある事件で、すぐに文春記者が自宅に取材にきたので、驚いたことがある。現在、大新聞の意欲的な記者が、文春に移籍するという状況が起こっているのだそうだ。最近の報道事情をみれば、納得がいくことだ。
さて、ここからが本題である。これまで、取材は大きな組織でなければできないと思われていた。人員と資金が必要だからである。しかし、ネットはこれを大きく変えようとしているということだ。もちろん、既に大手メディアでそうしたことがおきている。たとえば、事件、交通事故や自然災害が起こったときに、テレビで放映される映像の多くが、そのテレビのカメラマンが撮影したものではなく、視聴者から提供されたものである。つまり、一般のひとたちの助力で、すでにテレビの報道はかなりたすけられている。
それはyoutubeなどもそうなっている部分がある。たとえば、金子吉友氏がやっているyoutube「あつまれニュースの森」は、典型的な権力と闘う姿勢のyoutubeだが、木原事件を詳しく扱っているので見るようになったのだが、現在では、一月万冊よりも内容が濃くなっている。というのは、視聴者からの情報提供がかなりあり、それを適宜つかいながら構成しているから、どんどん新しい情報がはいってくるのである。一月万冊は、基本的にメディアの情報をもとにしていることが多い(若干の例外もあるが)から、木原問題は、現在では種切れに近い。しかし、金子氏のほうは、情報価値が大きいかはさておき、どんどん新情報がでてくるのである。そうやってとりあげるから、情報をもっているひとも、積極的に情報を寄せるのだろう。
こうしたやり方を、もっと組織的にやるようになれば、大新聞社のような大きな組織、資金力、人材がなくても、かなりの程度対抗できる報道ができるようになるのではないかと思うのである。