昨日は、著作集の編集委員会があり、編集委員会といっても、半分は研究会で、報告と討議がある。昨日は、五十嵐論の総括的な柱の報告があって、時間の関係でほとんど討議できなかったのだが、非常に充実した報告で、興味深かった。この報告について触れることはせず、また、充実したものであることを確認したうえで、私が聞いていて、主に考えたのは、こうした個人の業績を考える上で、研究者であれば、当然書かれた文章を素材にして考察するのだが、(そして、この報告は主要な本を素材にしていた)私は、むしろ書かれるべきであったのに、書かれなかった素材のことであった。もちろん、だれでも、あらゆることを書くことはできないのだが、専門領域については、当然かかねばならないことがある。そして、五十嵐は、東大の教育財政学講座の担当者だったということも、書かねばならないことがあると、多くのひとは考える。それは、「教育財政学」という総括的な著作である。実際に、五十嵐は、晩年それを書こうと努力していたといわれている。しかし、長い研究生活のなかで、ついに、そのような本が書かれることはなかった。
ただし、ここで考えたいことは、この基本的な「教育財政学」という書物が書かれなかった理由ではなく、私のかなり乱暴整理になるが、その前段の作業をしなかったことが、後年にまで、「教育財政学」を書くことを困難にした理由があるということで、その前段のことをとりあげたいと思っている。
その前段の作業とは、初期のアメリカ教育財政・教育委員会の研究をまとまった著作にしなかったこと、そして、1960年代はじめの「教科書無償化」について、何ら触れることがなかったことである。
私は、著作集の編集に加わるまで、ある疑問があった。それは、五十嵐が東大の教師に迎えられるにあたっての業績は何だったのだろうか、ということだ。五十嵐の最初の著作は『民主教育論』という本で、これは東大の講師になって以降に書かれた論文を集めたものである。つまり、東大の講師になる前に書かれた論文は、一切通常の著作としては公刊されていなかった。もちろん、いろいろあったのだろうけど、直接みることはできなかった。東大に採用されるのだから、当然しっかりした業績があるにはちがいないのだが、それがわからなかったのである。しかし、編集作業をして、初期の論文のデジタル化作業のなかで、初期の論文が厖大な量あることがわかった。これなら、文句なしに東大がきてほしいといったにちがいないと納得したわけである。
しかし、そこから、別の疑問が湧いてきた。おそらく、初期のアメリカ関連の研究は、厚い本にして3冊分くらいはある。しかし、それは国立教育研修所の紀要や今はなくなった雑誌に発表されているだけで、書物にまとめられることはついにないままに終わってしまった。それがなぜなのか、そして、まとめなかったことによる五十嵐の研究への影響はどうだったのか、が大きな疑問として湧いてきたのである。
当初、公刊した論文を著作にまとめることを躊躇した理由ははっきりしている。初期の論文を読んでみればわかることだが、その研究は、アメリカの研究者の研究成果をもとにしたものだったことだ。つまり、二次資料による論文だったのである。だから、それをそのまま著作にすることは躊躇ったのは、研究者としての良心として、当然だったろう。しかし、二次資料は多数の一次資料を駆使していたのだから、そこから辿って可能な一次資料を入手し、さらに別の一次資料を加えることができれば、再度自分としての考察を深めることで、りっぱな研究書になったはずである。短い時間にあれだけの大量の研究書を読み込んで、再構成したエネルギーをもってすれば、東大の教育財政学担当になった時点で、充分に可能な作業だったはずある。しかし、結局それは果されなかった。
その大きな理由は、教育をめぐる政治状況が大きく展開し、戦後民主主義改革が見直され、その民主的要素がはぎ取られる政策が進行したこと。そして、五十嵐は、その日本でおきている事態に立ち向かうことに集中するようになったことが背景としてあった。しかし、そういう忙しさだけが、アメリカ研究を遠ざけた理由とはとうてい考えられない。やはり、アメリカ研究にたっていた理論的位置に対する疑問が生じたということだろう。
アメリカの教育財政研究を、五十嵐は、植民地から出発し、地域地域のばらばらな教育の発展が、財政的困難でより広域の行政単位の教育費補助システムが構築されていき、最終的に国家よる補助システムができあがること、つまり、国家(地方に対する)の関与の増大が、教育の発展に寄与したという「全体把握」をしていた。そして、それは、戦後教育の反省から、民主的な教育改革を進めていた戦後改革における国家の役割と重なっていると認識していたといっても、大きな間違いはないだろう。しかし、教師の政治活動の制限、教育委員会の任命制への移行と、立て続けに戦後改革の否定と、教育運動を担う教師たちへの抑圧が強くなってくる。そこで、国家が教育発展の主体であるという認識に、大きな疑問が生じたことが、五十嵐の理論枠組を大きく展開させることになった。そして、マルクスやレーニンを学び、主にレーニンの理論に依拠しながら、帝国主義・独占段階における資本主義の国家では、必然的に、民主的な教育を抑圧するようになるという認識が前面に押し出されてくる。今から考えれば、それはかなり教条的な論理の押し出し方であり、説得力を感じさせない。
ただし、他方で、この時期五十嵐は戦前日本の教育費の歴史的推移を、実証的に詳しく研究しており、そこから、国家が次第に教育を統制し、軍国主義的教育を作り上げていく過程と、そこにおいて教育費がどのような役割を果したかを細かく分析している。おそらく、五十嵐が、一次資料に基づいて、詳細な実証的研究をした数少ない研究成果だといえる。しかし、その中心的成果であった「公教育財政における公共性の矛盾」という論文は未完におわり、これもその後の著作に収録されることがなかった。したがって、著作で五十嵐を知ったわれわれは、氏の実証的研究を知らずに育ったのである。この「公共性の矛盾」の研究においても、国家は教育破壊の元凶のような位置付けをあたえられることになる。
アメリカの統治を経験し、独立してもアメリカへの従属的位置を脱却できない日本の現状を考えて、「民族の独立」が目標であれば、アメリカにおける民主主義的な教育の発展における国家の中心的な役割を示す研究を、まとめる意思が五十嵐において、なくなったというのが、私の見方である。
しかし、やはり、アメリカ研究はきちんとしたまとめをするべきであり、そうすれば、後の教条的な論理は、より柔軟で現実的な論理を構築できたのではないかと思われるのである。そうしなかったことによって、財政研究における「国家」に地位や役割、位置付けにおいて、五十嵐は非常にあいまいな表現をするようになる。公教育が発展すれば、教育費が増大し、それは国家の関与を不可欠とするようになる。そのことをアメリカ研究で明確にした。しかし、戦前日本の教育費研究によって、国家関与が民主主義の抑圧としても機能する(典型的には、思想局の活動費の大きさ)ことも明確になる。国家の単なる二側面という以上の、対立する国家観を、五十嵐はふたつともにかかえることになった。しかし、それは、やはり、実証研究をふまえた理論研究が必要だった。そして、現実に起きたその国家の二側面をあらわす事態にたいして、切り込む必要があった。そして、五十嵐教育財政論にとって、第二の試練、そして理論を試す機会がやってきた。それが、教科書無償化措置である。
教科書無償化は、日教組のみならず、多くの国民の、そして文部省の悲願であった。何度も文部省は予算請求をしたが、大蔵省に拒否される時代が続いたのだが、ついに1960年代になって、小学校一年生から順次義務教育における教科書の無償が実現した。しかし、この改訂には、大きな毒が同居していたのである。それは採用制度の大きな変更だった。それまで教科書は学校単位で、教師集団が実際に候補となる教科書を比較検討して、自分たちにあった教科書を選択していた。そのために、多様な教科書が存在したのである。しかし、公費で教科書を購入するのだから、公的機関が選択をするのが妥当であるという理由で、数カ所の市町村がひとつの採択区を構成して、教師の代表が採択区に設置された協議会で選ぶようになったのである。最終的にはその提言をもとに市町村が決めるのだが、協議会以外の選択をすることはないから、近隣の自治体一体で同じ教科書が使われるようになった。そして、教科書を発行することは(当然検定があったが)、出版社であれば自由にできたが、大量の教科書が広範囲に一括採用されることになるために、教科書を出版できる会社の基準を定めることになった。大きな資本金をもつ企業に限定されるようになったのである。そうして、教科書は極めて数が少なくなり、多様性が失われた。それだけなら問題ないかも知れないが、そのことによって、少数の企業だから、文部省の影響が及びやすくなり、結果として、教科書は極めてつまらないものになっていったのである。もちろん、それは私の主観的な評価だが、おそらく多くのひとも共通に思っているたろう。いくら無償になっても、魅力のない教科書になってしまえば、教育的には明かにマイナスだろう。
つまり、日本で実施された教科書無償化の制度は、国家が費用をだすことによって、国家による統制の部分が大きくなり、結果として、教育が統制される方向に大きく進んだのである。このことは、五十嵐財政論にとって、それまで主張してきた国家の補助が必要であるにもかかわらず、それによって民主主義的な教育が抑圧されるという理論の、典型的な具体的事例であったはずである。しかし、五十嵐は、この教科書無償制度について、私の知る限りまったく論じていない。文部省が大蔵省に拒否されている段階で、無償について望む趣旨の文章はあるが、実際に実現する過程、あるいはそれ以後には、まったく触れていないのである。東大の教育財政学担当者としては、私はかなり異様な気がするのである。
当時、私はまだ中学生だったから、政治的なことはまったくわからなかったので、日教組がどのような対応をとっていたか、リアルタイムでの認識などはなかったのであるが、おそらく、日教組は、無償化の実現を長年の要求の実現として歓迎しただろうし、まだはじまっていない教科書採択制度の変更については、あまり認識していなかったにちがいない。だから、「よかった、よかった」という感じだったのではないかと思うのである。
しかし、五十嵐がそういう楽観論に浸っていたとは、とうてい思われない。無償化は歓迎したとしても、教科書採択制度の改訂については、大きな疑問を感じていたはずである。もし、疑問をもっていなかったとすれば、教科書無償化を歓迎する論文を書いたのではないだろうか。だが、五十嵐は疑問をもたざるをえなかった。だから、それを書こうとしたのではないか。だが、無償化を日教組運動の成果とする運動的立場は、それを許さなかったのではないかと、私は考えている。逆にいえば、五十嵐は、そうした政治的潮流に妥協したのである。
この時期は、五十嵐がソ教研をはじめ、ロシア語を猛烈に勉強していた時期だから、そちらに注意がむいていたという現実はあるのかも知れないが、教育財政の理論家であれば、無償化のもつ意味を分析することは、当然自覚的な課題だと把握していたはずである。
私には、日教組との妥協という理由以外は思いつかない。
そして、以後、五十嵐は、非常に教条的なレーニン主義者のように振る舞うことになる。