土屋邦雄氏のドキュメント

 youtubeで土屋邦雄氏のドキュメントをみた。テレビで放映されたものらしいが、制作は1999年ということなので、四半世紀前のもので、さすがにふるめかしい映像が多かったが、非常に興味深い内容だった。
 土屋邦雄といっても、知らない人が多いかも知れないが、日本人として初めてベルリンフィルの団員になった人で、40年間勤めたという。おそらく、定年になった時点で、テレビ局がドキュメントを制作したのだろう。単にベルリンフィルで活躍したというだけではなく、入団が1957年で、その後ベルリンの壁ができ、そして、やがて壁が崩壊した、というその歴史をベルリンに住んで体験してきたという意味でも、たくさんの情報をもっている人だろう。ただ、さらに3年ほど前に入団したのであれば、フルトヴェングラーの時代だったので、フルトヴェングラー、カラヤン、アバドという3人の常任を経験したことになるので、もっと興味深い事実を聞けたのではないかと思うが、それは仕方ないことだろう。

 
 興味深いエピソードをいくつか紹介しよう。
 カラヤンがなくなって、アバドが選ばれたときに、選出過程を完全に秘密にしたのに、漏れてしまったために、日本では、その過程がよく知られているのであるが、それを漏らしたのが、私は、当時コンサート・マスターだった松永氏だと思い込んでいたのだが、実は土屋氏だったということだ。もしかしたら、二人ともなのかも知れないが、とにかく、土屋氏が安易にNHKのひとたちに語ってしまい、それがニュースとして流れたので、土屋氏は、団員たちのかなりの怒りをかったらしい。かばってくれたのは一人だけで、かなりつらかったと思われる。それに、完全に自分に非があるわけだから、その後信頼を取り戻すために、そうとうな努力が必要だったようだ。
 ただ、われわれとしては、土屋氏が漏らしてくれたおかげで、興味深い選考過程がわかったわけだ。ベルリンフィルは、常任指揮者を団員の選挙で選んでいるというが、それは、私の理解ではアバドのときからだ。ニキシュがなくなって、ビューローが継いだとき、選挙をしたということは、ほとんど考えられないし、フルトヴェングラーが選出されたときには、まだ彼は非常に若く、ほぼ対象外だったのに、政治力を発揮して常任になったといわれている。民主的な選挙だったら、やはりワルターが選ばれたのではないだろうか。
 フルトヴェングラーの死後、カラヤンが選ばれたときにも、理事会とカラヤンの熾烈な駆け引きがあり、事実上カラヤンの要求をのまざるをえなかった感じである。だから、カラヤンまでは、選挙で選出されていないと考えるほうが事実にあっているはずである。
 カラヤンが辞任したあと、さすがに、ベルリンフィルとして、すぐに後任さがしをするわけにはいかなかったようだ。カラヤンとベルリンフィルが深刻な対立状態にあったとはいえ、オーケストラ側でカラヤンの代わりの指揮者を想定していたわけではなかった。それに、いくら妥協不可能な対立だったとはいえ、オーケストラに指名されて常任を依頼されても、安易に引き受けられる人もいなかったにちがいない。ベルリンフィルとして、後任さがしを始めるのは、やはりカラヤン死後のことになった。カラヤンがいなくなれば、後任をさがさざるをえないのだし、選ばれた人が、カラヤンに遠慮する必要もない。
 オーケストラとしては、カラヤンのある種独裁的やり方にこりて、運営の民主主義を徹底させようと考え、団員が相談の上、民主的投票で選ぶという方法を採用したのだと思う。そして、かなり揉めたようだ。というのは、かなり「売り込み」が激しかったからである。レコード会社からの売り込み、音楽プロモーションからの売り込み、その他さまざまな音楽有力団体からの売り込みがあり、選考が暗礁に乗り上げてしまった。その段階で、われわれが本当に欲しているのはだれなのか、バックにだれがついているかなどはすべてとりはらって、本当に信頼できる指揮者を選ぼうということになったらしい。そうして、候補者を絞りこんで、投票の結果アバドが選ばれたようだ。実は、アバドは、最初の売り込み候補のなかにははいっていなかった。もともと、アバドはポストを求める運動などをまったくしない人だったからだ。だから、選ばれたとき、アバド自身がかなり驚いたというのは、けっこう知られている。
 アバドが選ばれたことも、土屋氏にはプラスだったのではないだろうか。
 
 次のエピソードはカラヤンの映像をめぐることだ。カラヤンは、音だけの録音だけではなく、映像付きの記録を非常に重んじた。そして、いろいろな実験をしていたが、単なる記録というのではなく、ひとつの「作品」として映像をとらえていたので、カラヤンなりの拘りがあった。当初はフィルムによる制作だったせいもあると思うが、録音をとって、そのあとで、演奏を映像として部分的にとっていって、当てはめるというやり方をとっていた。現在であれば、機器が進歩しているので、同時にとってしまうが、カラヤンの時代は、まだ同時録り(撮り)は、質のたかいものが保障されなかったという事情もある。それにしても、カラヤン映像のオーケストラは、非常に不自然である。とにかく、楽器が何本もならんでいるのに、正確な角度でそろっているのだ。実際の演奏では、ありえないことだ。個々の奏者の楽器の構え方や演奏しているときの姿勢などは、まちまちなのだから。その角度をきめるための実験撮りに、土屋氏が指名され、モニタールームのカラヤンから、楽器の角度をいろいろと注文され、そのうちに、土屋氏ががまんできなくなって、「こんな姿勢で演奏できると思いますか」と啖呵をきって、下がってしまったのだそうだ。そのとき、オケのメンバーはブラボーを叫んだといっていた。オーケストラメンバーも、こうしたやりかたには、うんざりしていたようだ。しかし、カラヤン映像は最後までこの方式をとっていたから、結局だれも異論をはさむことができなかったのだろう。録音や映像の契約は、民主的運営をするベルリンフィルが主催する演奏会の、オーケストラ活動とは別のものだから、カラヤンの指示にしたがわざるをえなかったのだろうが。しかし、バーンスタイン風のライブに近い撮り方で(まずい部分をあとで補修する)やれば、カラヤンはもっと多数の映像作品を残すことができたと思うと残念である。
 
 ザビーネ・マイヤー事件についても語っていた。
 マイヤーの談話がでてくるが、土屋氏は最初に語りかけてくれたひとで、常に親切にいろいろと教えてくれたと感謝していた。マイヤーにたいしては、すでに険悪な関係になっていたカラヤンとベルリンフィルだったから、最初からマイヤーに対するあからさまな反感が、オーケストラのメンバーには存在した。通常の関係であれば、マイヤーは確実にベリルンフィルに採用され、その圧倒的なうまさで際立ったにちがいない。ベルリンフィルの、とくに管楽器セクションのひとたちは、音色がベルリンフィルにあわない、などといっていたが、それは単なるこじつけに過ぎないことは明かだと思う。オーボエには、コッホという、極めて特徴のある音色をもったひとがいて、他のメンバーは彼とは音色が異なっていた。そして、マイヤーは、カラヤンが振るときには出演を認める、という妥協案が成立していたので、マイヤー出演の映像がいくつかあるが、たしかに際立ってうまく、感心するが、決して浮いた感じはしない。きちんとオーケストラのなかにとけ込んでいる。土屋とは室内楽を一緒にやったというのだが、それでも土屋はマイヤーの採用には反対したという。インタビューをしているときに、となりで奥さんが、「女だからでしょ」と横やりをいれていたが、マイヤーが応募したときには、女性団員はだれもいなかったから、そういう点でも、不利に扱われたといえる。他のメンバーでバイオリン奏者のひとが、マイヤーについて語っていたが、結局、カラヤンの強引なやりかたに反対していたのであって、自分はマイヤーに賛成票を投じたと語っていた。
 ただ、これまで、ザビーネ・マイヤー事件の決着は、カラヤンとベルリンフィルの決定的な対立をさけるために、マイヤーが最終的な投票の前に辞退した、といわれており、私はそう思っていたのだが、このドキュメントでは、投票が行われ、必要な3分の2にならなかったので、否決されたのだ、というようになっていた。どちらが本当なのだろうか。
 
 他のに土屋氏がベルリンフィルの採用オーディションをうけたときの逸話などもあったが、興味のある人は、youtubeで簡単にみられるので、ぜひみてほしい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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