札幌殺人事件の子育てを考える2 責任

 今回は、「責任」の問題である。

 サドベリバレイ校の教育の根幹に次の原則がある。
・何をするかは自分で決める。
・決めたことを実行する際に、スタッフは求められれば、可能な援助をする。
・その結果について、本人が責任を負う。
 つまり、簡単にいえば、何をするのも自由だし、援助もするが、その結果については、本人が引き受けるということだ。
 実は、日本の教育全般に、非常に欠けているのが、この本人責任である。本人が明確に結果を負うのは、成績評価と入試が主なものだろう。だから、入試には必死になるといえる。しかし、入試も全入時代になっているから、その面での責任もあいまいになっていると考えざるをえない。
 では、通常の教育、特に日本の教育や子育てで、責任があいまいになるのは何故だろうか。それは、逆にサドベリバレイ校の原則をみれば、はっきりする。本人が責任を負う前提として、自分の意思でやることを決めるという、決定権があることだ。サドベリバレイ校の設立の際に最も重視されていたことが、この決定権と責任の結合スタイルを実現することだった。
 通常の小学校や中学校に通うことは、日本だけではなく、「義務」になっている。自分で決めたわけではない。しかし、それはサドベリバレイ校でも、親の選択が大きいという点では、さほどの違いではないかも知れない。しかし、はいったあと、通常の学校では、やるべきことが、学校によって詳細に決められている。自分でやるかどうかを決めるわけではない。だから、義務として行うことに結果が伴わなかったにしても、そのことの結果責任を負う、という意識は、本人にも、教師にも、そして親にも生じないはずである。「ああ、できなかった」「今回は試験の点数がわるかった、次は頑張ろう」というレベルの意識をでることはないに違いない。

 札幌の娘は、不登校を繰り返した。そして、学校にいかないことについて、親はなんら否定的なことをいわなかったのだろう。ならいごとについてもそうだ。行きたいときにいき、行きたくなければ休むのも、まったく自由。
 しかし、常識的に考えて、これは、自由というものではないだろう。単なる気まぐれ、わがままであるに過ぎない。「自由」という概念は、あることを自由に操ることができる、つまり、何か実行したいのだが、技術が伴わないために、自分の意思どおりにうまくできない、つまり、不自由な状態であるところから、厳しい訓練・練習を経ることによって、自分の意思を実現できるようになる、つまり、自由にできるようになるという「自由」がある。
 親が子育てをするさいに、「自由」を重視するとき、何もしない、何もできないようなことを許容する、子どもの怠惰な姿勢に異議を唱えない、というようなやり方を、自由の尊重と考えるのは間違っている。子どもの意思を尊重するということは、何か始めるときに、それは自分の意思によって、始めるのだということ、そして、始めた以上は、いいかげんにするのではなく、きちんと取り組む必要があること、そして、どうしても、それを続けたくないと思ったら、それをしっかりと説明し、自分の意思で辞め、まわりに影響を与えたることがあったら、自分の責任で処理すること、そういう「約束」と「確認」をすべきだろう。習い事なのだから、当然教えてくれるひとがいる。習い事とは、教えるひとと教わるひとの「契約」で成立することだ。実は、サドベリバレイ校で授業が行われるときにも、教わりたいひとたちがグループをつくって(一人でもかまわないのだろうが)、教えてほしいひとに交渉し、そこで詳細な約束を決め、(契約を結ぶ)それを実行する義務が生じる。そういう経過で授業が行われる。もちろん、いつ、どのような状態で終わるかも決められているだろう。だから、彼等はしっかりと集中的に学び、極めて効率的に学習するという。

 娘が習い事を休むようになったとき、(しかも、20代後半になってのことだ)講師から連絡があったとき、母親が講師に対して、「我が家ではいきたくないときには、無理にいかせない」と答えたと報道されている。「責任」などという大仰なことをいわないまでも、自分で講師に説明させる必要があっただろう。しかし、そうした最低限の責任を果すことも求めないまま、親が説明をしてた。
 こういう親の対処は、他の点でも同様だったと考えられる。
 冷静に考えれば、そうした子育ては、子どもが自立して生きる力を形成させる機会を与えないものだ。おそらく、何か社会的に有用なことをする能力も育たないし、社会にでて必要な人間関係を形成することもできないし、ずっと他人に依存して生活せざるをえない人間を造ってしまうことになる可能性が高い。実際にこの娘は、そういう風に育ったといえる。

 それに対して、サドベリバレイ校では、自分でやることを決め、それを徹底的にやることで、そのことに習熟し(自由にできるようになる)、自分の将来の方向をも自覚できるようになる。自分で行うことに自分で責任をとる意識と行動が形成されているから、社会で自律的に生きていくことができるわけである。
 サドベリバレイ校のような教育を、日本の学校で実施することは、ほぼ不可能であるが、(ただし日本にもサドベリバレイ校が複数存在している)親が家庭で子育てをする場合には、重要な示唆を与えてくれるし、また実行可能なこともある。自由と責任をしっかり結合した子育てをすることが重要であり、札幌の親は「責任」のレベルを勘違いしていたと考えざるをえないのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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