終戦の日に思う

 今日8月15日は、第二次世界大戦が一応終わった日ということになっている。既にドイツやイタリアは降伏しており、日本だけが連合国と戦争状態にあったが、ついに、1945年の8月15日に天皇が、ラジオ放送で終戦を告げたわけである。このときの総理大臣であった鈴木貫太郎の記念館を一度見学したことがあるのだが、そこに、終戦の詔勅というSPレコードが展示されていた。これが、実際にラジオ放送されたものなのか、聞きたかったのだが、実に小さな家の一間を展示室にしているようなところで、説明の人がいるわけでもなく、質問することができなかった。このレコード原盤を盗もうとして、終戦反対派の軍人たちが、策謀を巡らせたことは、有名な歴史的な逸話である。残念ながら、この鈴木貫太郎記念館は、現在はやっていない。
 ちなみに、ポツダム宣言の受諾は14日である。そして、実際に降伏文書に署名をしたのは、9月2日であった。そして、ポツダム宣言が発表されたのは7月26日であり、そのときの主体はアメリカ、イギリス、中国だった。つまり、ソ連はまだ参戦していなかったから、はいっていなかったのである。そして、日本政府は28日に宣言を無視するという見解をとり、実際には敗戦は確定的であったにもかかわらず、受け入れを拒んだ。その結果、8月6日に広島原爆投下、8日にソ連の参戦、9日に長崎への原爆投下という悲惨な状況を重ねてしまった。もし、7月26日に公表された宣言を、真剣に討議し、結局、そうせざるをえなかった決断をより早く、7月中に受諾していれば、原爆投下はなかったし、また、ソ連の参戦もなく、したがって、北方領土がソ連にとられることもなかったのである。

 そして、もうひとつ忘れてはならないことは、8月の15日は、単に天皇が敗北を全国民に知らせただけのことであって、当然、各地の軍隊に戦争集結を知らせたとはいえ、戦闘行為がただちに完全になくなったわけではなく、さらに、引き上げ時の大混乱が各地で生じていたことである。そういう点でも、当時の日本政府と軍部は、まったく状況認識も正確でなく、状況への対応能力ももっていなかったわけである。
 終戦の日に思うことは、まずはこのことである。日本の支配者たちが、いかに無責任で、無能であったか、どうしてそうなってしまったのかを、再考察を繰り返す日にする必要がある。
 
 もうひとつ、最近よく考えることがある。それは五十嵐顕著作集の仕事をしていて考えることだが、五十嵐は、戦後改革を行った人々が、戦前の意識を引きずっていて、非常に中途半端な戦争反省しかしておらず、それが、戦後改革の不徹底さをもたらしたひとつの原因であると考えていた。たしかに、戦前は明確に軍国主義的な言動をしなかったという意味で、リベラルといわれていた人たちが、文部大臣になり、改革を推し進めたわけだが、それでも、教育勅語は普遍的な道徳をあらわしているというような感覚に囚われていたと批判する。
 しかし、見方を変えれば、戦前のリベラル派のすぐれた学者たちですら、教育勅語の問題を認識していなかったとすれば、他は推して知るべしである。
 占領政策のなかで、アメリカ占領軍は、戦前の軍国主義的な考えを強くもっていたり、戦争遂行に中心的な役割を果たした人物を、東京裁判にかけたり、あるいは追放した。そして、処刑された人も多数いるが、かなりの人は、その後追放解除になり、戦争犯罪者として拘留されていたひとたちも、ほとんどが釈放され、さらに政治の中心をになうようになった。その代表的人物が、A級戦犯容疑者として、巣鴨の刑務所に拘留されていた岸信介である。彼は、巣鴨刑務所のなかで、米ソの対立が激化することを期待をもって予想し、そうなった場合には、自分はかならず釈放されて、むしろ重用されるだろうと考えていたのだそうだ。そして、そのとおりになった。そして、軍国主義的で追放されたものが、追放解除になったのとほぼ並行して、レッドパージが実施される。
 ひとつの問題は、このときレッドパージされたひとたちは、戦後改革を全国民的な視点で遂行する理解力と、実行力と意思をもっていたかという点だ。勝田守一は、戦後改革の主体が、当時存在しなかったことが、戦後改革の問題であったと分析したが、レッドパージ組だけではなく、その後日教組を中心的にになうひとたちが、次第に排除され、抑圧される歴史が続くことになる。しかし、日教組ができたのは、占領政策の後押しもあり、当初は文部省と日教組は協調して改革を進めていた間柄だった。それが、次第に対立を深めていったのは、避けることができないことだったのか、あるいは、双方に相手への誤解や、自分たちの政策に対する認識不足があって、対立を深めていった、つまり、相互理解があれば、あるいは理解の努力があれば、組織をあげての対立などにはいたらなかったのか。私が知るかぎり、その点の研究は、あまりなされていないように思われるのだが、どうなのだろう。勝田が、戦後改革の主体が存在しなかったというのは、こうした文部省と日教組の対立図式のなかでは、まともで持続的な改革などできるはずがない、ということだったのだろうか。それを今後確かめる必要があると考えている。
 
 五十嵐の文献をずっと読んでいるわけだが、1970年代くらいまでの五十嵐は、明確に、朝鮮民主主義人民共和国を褒めちぎっている。五十嵐の専門的観点でいえば、そこでは、教育の完全無償化が徹底して実施されており、教育における階級対立が克服され、機会均等が実現しているように断言されている。本当にそう思っていたのか、私には、どうも判断がつかないのである。現在では、朝鮮戦争は、北朝鮮がひき起こしたものであることが明確になっており、その後は、日本だけではなく、拉致問題をひき起こしていたこと、そして、当初経済がよかった時期があったにせよ、韓国に経済的におくれをとり、現在では完全な極貧国になってしまっている。ただし、私が小学生、中学生のときには、豊かな北と貧しい南という図式を、学校で習っていたので、若い朝鮮籍のひとと結婚した日本人女性が、北朝鮮に渡っていったことは、当時の雰囲気でいえば、それほど不自然ではなかったのかもしれない。もちろん、反対していたひとたちもいたのだが。
  ここに象徴されることは、当時の世界の情勢を、双方がよりリアルに認識して、相互に交流していれば、戦後改革のあれほどの反動化はおきなかったのか、それとも、当時の状況としては、あれ以外はありえなかったのか。より柔軟な視点で考え直してみたいと考えている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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