統一地方選挙が終わって、ずいぶん日時がたった。今年のはじめに、松竹問題が起きて、この影響が選挙にどうでるかを注目していたから、やはり、再度考える必要があると思った。
赤旗のホームページに、選挙結果に対する見解がでている。23日選挙の結果では、91議席減らして、909議席を獲得したということだから、約1割減少したということだろう。前半選では25%減ったということだから、今回の選挙は、かなり大きな敗北ということができるし、また、「多くの候補者を落選させたことは、悔しく残念であり、お詫びを申し上げます」と書かれている。
敗因としては、野党共闘とロシアのウクライナ侵略を契機とした軍事力大増強という二大逆流に抗することができなかった。また、共産党は異論を認めない党という反共キャンペーンが展開されたこと、そして、志井委員長の言葉では、さらに「自力」が不足していたことを敗因としている。
主張ややっていることは正しいのに、攻撃に負けたというパターンの弁明は、今回はあまりみられない。
本日の記事として、小倉健一「共産党の「落日」を朝日新聞がまったく笑えない理由…当選者激減と部数激減の「根本原因」がみえた」がある。
主に朝日新聞に対する見解を書いた記事だが、共産党の敗因については、勝機があったのに、自ら潰したという主張になっている。ウクライナへのロシア侵略では、多くの日本人が軍事的防衛力の必要を感じたのに、共産党は「話し合い路線」でしらけさせたし、松竹除名問題でも、本気の提言を攻撃として、被害者ぶっているような強権的な姿勢は、リベラルに受け入れられないとする。
小倉氏は、左-右、保守-革新という分類で、野党は中道の人の支持をえられないと支持を拡大できないという前提で書いている。そうした小倉氏の主張は、さておき、私なりに考えていることを整理しておきたい。政党には、確かに、左右、保守革新という分類軸があるが、また、基盤とする階級というのもある。
1990年前後に、世界の社会主義国家が次々と崩壊し、現在では、自他ともに認める社会主義国家は、存在しなくなった。キューバがそういえないこともないが、中国を社会主義国家を認定する人は、いても少数派だろう。この1990年ころを境にして、左右、保守革新、階級という分類軸は、あったとしても、大きく変容したといえる。
ソ連崩壊以前は、どの程度厳密な検証に耐えるかは別として、以下のような図式が成立していると、思われていた。
保守・右・経営層・ホワイトカラー・自民党(資本主義) 対 革新・左・労働者階級・社会党・共産党(社会主義)
1990年以降、最も大きく変化したと、私が思うのは、政党のなかで、「社会主義」を明確に主張する政党は、共産党のみで、しかも、それは将来の方向性としてである、ということ、そして、保守と革新の判断が、かなり変ってきたことである。社会主義国が現実に存在しなくなると、保守(現状尊重)と革新(現状打破)の判断要素が、政治体制だけではなく、社会の技術的進歩への姿勢も加わってきたことである。1990年代以後、社会の在り方は、かなり大きく変化してきたが、その動因は、明らかにコンピューターの進歩だった。職場の様子や仕事の仕方、学習の仕方、情報世界等々、昭和の時代と今では、生活様式がまるで違うものになっているともいえる。このような変化を主軸に考えてみると、もっともそうした技術の変化に敏感に反応して、流れにのっているのが、政治的には右のひとたちであり、それに不熱心かむしろ反対姿勢をとっているのが、左のひとたちなのである。つまり、右が革新で、左が保守なのである。これは、憲法問題でも同じ構図になっている。実は、これは様々な分野でおきている逆転現象といえる。
20年ほどまえ、大都市を中心として、公立小中学校で、通学区に囚われず学校を選択できるシステムが、いくつかの地区で取り入れられたが、私も、ある区の学校選択のための審議会の責任者になったことがある。そこには、各団体の代表が入っていたのだが、政党からはただ一人共産党議員だけが参加していた。共産党は反対だったので、あとあとのためにメンバーにしていたらしい。実際、毎回反対するので、じっくり話しましょうと、私と課長、そしてその議員3人で2、3時間じっくり話し合った。意見が変わることはなかったのだが、まあいい話し合いはできたと思う。ただ、そのとき課長が、「共産党の人って、どうしてあんなに保守的なんでしょうね。」といったのである。
さて、選挙結果であるが、通常言われている最も大きな共産党の敗因は、党員と支持者の高齢化である。
では、何故、若者に支持が広がらないのか。もちろん、いろいろな理由があるのだろうが、私が思うのは、共産党が、現状維持を主張して、社会の革新を主張する側ではないからではないかということだ。経済状況は、あきらかに日本は停滞している。若者にとっては、現状は脱却すべき状況である。そして、その推進力は、AIに代表されるようなコンピューターを駆使した仕事群である。理論的にも、左派の主張は、若者に届きにくい。『正論』や『文藝春秋』には、キンドル版があるが、『世界』や『前衛』にはない。右や保守系の新聞、雑誌の記事は、単体としてヤフーニュース等に掲載されるが、リベラル系は、極めて少ないのは、こうしたことから当然だろう。憲法改正にしても、共産党は絶対的護憲であり、変えようとしているのは自民党だ。
つまり、未来指向性を感じるのは、若者にとっては、右の側になっているというのは、否定できない事実なのである。
若者は革新的である、ということは、実はあまり変っていないともいえるのである。
このことは、最初にあげた敗北理由とからめるとどうなるのか。
軍事費増大というような攻撃と、松竹とからめた反共キャンペーンということだが、実際には、攻撃というようなものではなかったのではないか、と外から見ていると、みえるのである。極端にいえば、攻撃すらされない無視に近いものだ。そして、松竹問題については、キャンペーンをはられたのではなく、墓穴を掘ったに近いということだろう。松竹問題についての共産党への批判は、確かに強かったし、私もここでささやかな批判をしたが、批判の主体はネットであって、自民党はじめ、他の政党がキャンペーンをはったというほどの批判をしたのは、目にしなかった。小倉氏のいうように、私は、松竹氏の批判を、柔軟に対応すれば、逆に、イメージ改善に役立てることは、充分にできたと思う。しかし、外部に議論をもちださない、などという原則は、独裁政権による弾圧から、党を守る必要があった100年近い前に確立した原則である。千数百人の議員がいる現在、そして、ネット社会における政策論争の在り方という視点が、まったく欠けているようにみえる。つまり、現状維持姿勢を強く感じさせる。そうした体質が若者を惹きつけないのだと思わざるをえないのである。
教育学者にも、そうした保守的体質の強いリベラルが多い。
絶対に前進に不可欠なのは、「革新」が本当に革新であることに転換することではないか。