岸田首相へのテロ犯の主張

 岸田首相の暗殺をはかった木村隆二容疑者は、ツイッターで発信していたというので、読んでみた。「「被選挙権年齢・選挙供託金違憲訴訟」広報」という名前で出している。現時点で削除されていない。ツイッターだから仕方ないともいえるが、あまりに主張が単純なので、驚いた。24歳で参議院議員選挙に立候補しようというのだから、もう少し緻密な議論をしているのかと思いきや、要するに、主張の羅列でしかない。その主張は以下のようだ。
・選挙権は普通選挙権があるのに、被選挙権は制限選挙になっている。
・立候補の年齢制限と供託金は憲法違反である。
・このふたつと世襲政治のために、普通の国民は立候補もできない
・外国人を日本人より優遇するのは、国賊である。(留学生30万人計画をさす)
ぐらいが、主張である。

 日刊ゲンダイ(2023.4.21)によれば、木村は、自民党支持者だったという。
「岸田首相襲撃犯に“ネトウヨ”投稿歴 ツイート分析で透ける「格差にイラ立つ自民党支持者」の主張」
 そして、ネトウヨだと書かれている。どれほどのネット発信者であるかは、まだわからない。このツイートは、参議院選挙に立候補できなかったために、訴訟を起こして、訴訟関連について書いているというものだからだ。他の名前で書いている可能性はあるから、まだ主張の詳細はわからないが、おそらく「詳細な検討」などはないに違いない。ツイッターでも、連続投稿で、けっこう緻密な論理を展開している人は、いくらでもいる。彼のはスローガン以上のものではない。そして、それがいれられないとテロに走るというのは、やはり、かなり注意が必要だろう。ネトウヨ→ポピュリズム→極右→テロという進展を感じさせるからである。木村の場合、背景があるとは現在では言われていないが、こうした人びとが集団になり、政治勢力になると、社会にとって危険だといわざるをえない。
 
 スローガン的に単純なことだけを述べているレベルでは、それほどおかしな主張ではない。ファシストやナチスも、主張している結論だけをみれば、国民の多くが共感するようなことだった。しかし、その主張を結局は、暴力を媒介として実現しようとした。国民の多くが共感するようなことでも、実際の経済・社会のなかでは、多様な利害が絡まって、実は他の「多くが共感する」ような主張があり、そこは、しっかりとした議論の末、バランスのとれた方向を見いだしていくことが必要となる。その粘り強い中間の作業を飛ばして、暴力に訴えるのが、全体主義であろう。
 被選挙権の年齢制限については、どこに線引きをするかは議論があるとしても、成人に達したら、すぐに議員や首長に立候補でき、知事や国会議員になれるというのは、多くの国民が反対するのではないだろうか。現在は成人年齢は18歳になっているから、高校生の県知事や国会議員が生まれる可能性がある。政治には、やはり社会的な経験が必要で、参議院の30歳が妥当であるかの議論はあるが、やはり、成人になって、ある程度経過することを求めるのは、妥当なことだと思われる。だから、何歳からという議論を欠かすことはできない。
 供託金も同様だ。選挙を行うためには、かなりの税金が使われる。立候補者が多くなれば、それだけ費用がかかるのである。だから、もし供託金がなければ、無責任な立候補者が多数でることは間違いなく、そうしたことのためにも費用が莫大なものになってしまう。そういう意味で、ある程度立候補への歯止めは必要なのである。もちろん、現在の供託金は、金額が大きすぎることは、多くの人によって指摘されており、私もそう思う。現在の供託金の金額は、おそらく小政党が立候補するのを抑制するように、決めているに違いない。かつて共産党は、すべての選挙区で立候補者をたてる方針をとっていたが、供託金の没収で財政が厳しくなったので、まったくの泡沫候補になっているところは、立候補しないように変化してきた。しかし、政党である以上、すべての選挙区に立候補し、政策を訴えることは、正当な行為なのである。政党が候補者をだすのだから、乱立ということはないし、無責任な立候補になるわけでもない。問題は個人だろう。個人も、供託金が障害になって立候補できないようにするのは、民主主義に反することは明らかだ。供託金がなくても、さまざまな選挙活動を実行するために、資金が必要だから、無一文の人が立候補することは、元々困難である。あらゆる選挙活動を公的資金で賄うことは、当然できないことだ。以上のようなことを考えれば、ある程度の供託金は必要であると、私は考える。ただ、金額は、現在の6桁の金額が高額すぎることは、あきらかだ。
 世襲政治の弊害は、私も何度もここで書いてきたが、だからといって、政治家の子どもが立候補できないようにすることは、逆に憲法違反になるといえる。世襲政治の弊害をなくし、二世・三世の立候補をさまたげない仕組みは、どういうものがあるのか、それはかなりの議論が必要である。私は、親の選挙区からは立候補できないようにするのが、まずは必要だと思うが、それは、法律で禁止すべきものでもない。政党の自発的な意思によって行うべきものだ。
 
 問題は、このように短絡的な思考から行動にでてしまうような人間が、どのようにして形成されてきたのかであり、教育のありかたから考えていく必要がある。私がみる限り、支配的な教育は、ものごとを批判的に考察し、多様な側面を個々に検討しながら、自分なりの見解を見いだしていくというようなプロセスは、極めて軽視されている。一見「考える」ことが重視されているような部分もあるが、その思考は極めて形式的になっている。
 ある小学校の教育実習の研究授業をみにいったときのことだが、算数の授業で、問題をいくつかの方法で解き、それを3人に個別に説明しなさい、という課題がだされた。そして、しばらく問題を解いていた子どもたちは、立ち上がって、まわりにいる人をつかまえ、自分のやり方を解説していく。それを次々に行っているのだが、みんなでやっているから、がやがやしていて、ただ一方的なものであり、対話などとはほど遠いものであった。実習生がやることは、指導の教師もやっていることがほとんどであり、確実に了解をとっているのだから、これが「考える」「表現する」ことを学ぶやり方なのかと、愕然としたのだが、そうした経験は何度もあるので、現場ではこのような手法が奨励されているのだろう。
 そもそも、職員会議で議論することを禁止するような行政だから、教師だって、異なる意見を議論して調整するようなことを、なかなかしにくいのであろう。
 こうした教育と木村を結びつけるのは、もちろんできないが、背景として考える必要はあるように思う。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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