戦後の日本経済は、官僚が政策をつくり、実行させることで発展してきたと言われていた。テレ東の番組で、一柳良雄という旧通産官僚が、新しいことを試みている経営者とインタビューする番組がある。その冒頭に、一柳氏は通産官僚として、日本経済を牽引してきたという紹介が必ず流れる。確かに、かつてはそうだったのだろう。私が大学生だったときには、やはり、優秀な学生は官僚になっていった。私の高校時代の文系で際立って優秀だった人物は、大蔵省にはいった。一番ではいったという噂だったが、次官にはならなかった。そして、そういう官僚花形時代は、それなりに続いたと思う。
しかし、昨今、官僚志望が年々減少していることが、メディアで報道されている。
2021年度は20年度と比べて14.5%減ったとしている。逆に女性申し込み者が過去最高になり4割を超えたという。
「キャリア官僚志願者14.5%減 過去最大、働き方影響」
そして、この傾向は22年も23年も変らず、大きな論議を呼んでいるのである。その原因に様々なことが言われている。ブラック職場であることが知られてきた、かつては、官僚が政策をつくっていく中心だったが、最近は政治家たちが表にでて、政治主導になって、官僚たちの仕事が下請けのようになってきた、天下り批判なども厳しい、等々。
安倍内閣が、官僚に対する統制を強め、官僚の従属的な立場が顕著になったことが、官僚の仕事の魅力を低下させ、さらにブラックな労働環境がそのことによってもクローズアップされてきたことが原因だろう。
これを日本という国家の危機とみるか、あるいはよい傾向とみるかは、当然両論あると思うが、私は、大いにけっこうなことだと思う。これだけ複雑多様化した社会において、国家・政府主導で経済を動かしていくことは、時代遅れとしか思えない。国家主導であれば、当然、一定の基準や規制が大きな力を振るうことになる。しかし、その基準が間違っていたら、国家全体として間違ってしまうわけである。
車の自動運転が開発されはじめたとき、国交省は、その開発にブレーキをかけたとされる。自動運転の初歩段階では、自動ブレーキが重要な意味をもつのだが、その開発に自動車メーカーが取り組み始めたころ、ブレーキは人間が踏むものであって、自動化してはならない、したがって開発もしてはならないという方針をだし、強力に行政指導をしたとされている。それにすべてのメーカーが従ったかどうかは、私にはわからないが、そのために、全体としての自動運転の研究開発は10年遅れたと言われているのである。もし、そのような国家の指導がなければ、当然メーカーによって考えが違うから、国交省と同じように考えたところもあるだろうが、多くは、自動運転は将来の姿であると考えて、その開発に注力したはずである。それは、企業ごとにちがっていいのだ。
農業分野でもこうしたことは、少なくないようだ。米の研究は非常に盛んだが、けっこう以前、ハイブリッド米を発明した農業研究施設があった。つまり、通常の稲よりも倍の収穫があるわけだ。ところが、当時の農林省がそれに烈火のごとく怒って、そんなものを作るなと禁止をしたのだそうだ。当時減反政策をやっていて、まだ政府が米を買い入れていた時代なので、そんなたくさんの米を作られたら、政府の負担が大きくなるからだめだ、というわけだ。それで、開発が中止になり、そのうち中国にその技術をとられてしまったというのだ。
当時、農林省は、日本の農産物を輸出するという「発想」自体がないように、私は感じていた。日本のような土地の狭い、人口の多い国は、農産物は輸入するものであって、輸出などとんでもないし、できるはずもないという思い込みがあったのではないだろうか。私の誤解かもしれないが。もし、早期から、日本の農産物も輸出することを意図していたら、ハイブリッド米は、実に強力な輸出商品になった可能性がある。
現在では、政府も農産物の輸出のてこいれをしているが、かずかずの間違った政策をとり、政府の失敗だから、被害も大きかったはずである。おそらく、こうした行政の間違った指導は、他にもたくさんあるのだろうと思う。
文部行政でいえば、優れた施策をとることのほうが圧倒的に少ないようにみえる。現在、教師不足が深刻になっているが、これは、30年以上前から予想できたことであり、私はたびたびそのことについて書いてきた。文部省、文科省は、一貫して教職の魅力を低下させるような政策を、ずっととり続けてきたからである。現在、公立小中学校は、日本最大のブラック企業であるとまで言われることがあるが、職場のブラック化を招いた最大の責任は、文科省にある。いくら働いても残業手当がでず、本来残業させてはならないはずのところで、どんどん残業しなければこなせないような、消耗な作業を現場にどんどん押しつけてきた。社会の批判が強いと、ポーズだけは、改善案をだすが、その改善すら、結果的には残業を減らすのではなく、辻褄をあわせるだけのものになっている。
カリキュラムを改訂するたびに、教員にとって大きな負担となるようなものを導入する。プログラミング学習、小学校の英語等々。もちろん、それらのなかには必要なものもある。しかし、新しく導入するなら、新しくその担当者を配置すべきである。しかし、プログラミングも小学校の英語も、基本は既存の教師が教えることになる。まったくこれまで教えていなかった、あるいは勉強もしていなかった内容を、突然教えろ、と言われれば、誰でも戸惑うし、極めて大きな負担を感じるし、また準備などに多大な時間とエネルギーを費やさなければならない。学校行事にしても、負担がどんどん大きくなる。
文科省は、戦後ずっと、「解体論」が、断続的ではあるが、だされてきた。教育は地方の事業であるからという理由もあるが、文科省がマイナスの政策をずっととっているからという理由のほうが大きい。日本全体の中央と地方の関係のありかたにもよるので、単純にはいえないが、私自身、文科省はいらないと思っている。いらないのだから、志望者が減って、集まらなくなるのは、大いにけっこうだ。それをきっかけに、大胆に仕事を減らすようになればよい。
文科省でいえば、全国学力テストというのがある。私は、そういうことを国がやることには、原則的に、絶対的に反対である。そう思っている教育学者はたくさんいる。国家がテストをやるということは、国家が「正解」を決めるということなのだ。それは、決してやってはならないことだと、私は思う。もちろん、学力調査は、いろいろな意味で必要だから、民間組織にやってもらえばよい。そして、複数の団体が、それぞれ実施し、どこかを選んで受ける、あるいは受けない自由も認める。そのほうが、現場に与える圧力はずっと小さくなるし、弊害も少なくなる。また、民間がやるなら、反対のしようもないだろう。民間に移せば、文科省が関わることもないから、仕事が減るわけだ。もっとも、現在でも、文科省の役人がテスト問題を作っているわけではなく、アウトソーシングしているのだが、それでも、管轄しているかいないかで負担は違うだろう。(続く)