五十嵐顕考察7 五十嵐顕とはどのような研究者だったのか2

 前回、書き漏らしたこと、そして、新たに考えたことを付け加えておきたい。
 前回は、僣越ながら、私自身の姿勢、歩みと比較してしまったが、今回は、堀尾輝久氏と比較して、研究者のあり方の違いを考えてみよう。堀尾輝久氏は、戦後育った教育学研究者としては、最も優れたひとだと思うが、研究者としての「修行時代」は、五十嵐氏とは、まったく違っている。
 五十嵐氏は、既に日中戦争が深みに入り込んだ時期に、学生時代を過ごしており、東大では繰り上げ卒業になって、そのまま戦地に兵隊として行かされた。約5年間インドネシアを中心に兵役につき、無事帰国することができた。そして、この戦時中の経験は、その後ずっと底流として、五十嵐氏の心の底に流れ続け、晩年、中心的なテーマとなった。帰国後、新しくできた文部省の研修所に勤め、戦後改革に関連する調査活動に携わったあと、宗像教授に呼ばれて東大の専任講師となる。因みに卒業論文は、ペスタロッチだったが、一冊のレクラム文庫を元にしてまとめたものだったという。多少謙遜はあるが、時代的状況もあり、事実それに近かったのだろう。

 この経歴をみて、五十嵐氏は、おそらく時代が原因となって、通常経過する「修行時代」がなく、つまり、基本的な学問的トレーニングをする機会がなかったことがわかる。
 それに対して、終戦時には子どもだった堀尾氏は、大学では、極めて恵まれた「修行時代」を経験する。学部時代は丸山真男のゼミで、そして、大学院では勝田守一ゼミで、しかも、勝田守一からは、共同執筆の論文を書くなど、これ以上ない学問的トレーニングをうけたといえる。だから、五十嵐氏の文章には、いかにも活動家的雰囲気が満ちており、堀尾氏にはアカデミックな香りが漂っている。もちろん、それは優劣の問題ではなく、雰囲気や文章の目的の相違である。堀尾氏は、ごく自然な形で勝田氏の後継者として歩み、五十嵐氏は、研修所勤務から、宗像氏に東大に呼ばれたわけだが、そのときに、五十嵐氏は、乗り気ではなかったという。五十嵐氏は、東大を定年で辞めたあと、しばらくどこにも勤めることがなかった。ほとんどの東大教授たちは、定年後私立大学に迎えられるのだが、五十嵐氏は心臓を悪くしていたこともあったろうが、おそらく、猟官的なことをしなかったのだろう。結局、五十嵐先生をしたう三上和夫氏が、自身の勤めていた中京大学に呼び、そこで数年を過ごす。つまり、五十嵐顕というひとは、みずから職をえようと奔走することがないひとだったということだ。これは、私が好きな指揮者であるクラウディオ・アバドに似ている。自分では求めなくても、ぜひ来てほしいという要請があるひとだということになる。
 
 では五十嵐氏は、どこでトレーニングを受けたのだろうか。それは、実際に求められた仕事をしながら、模索しながら自己トレーニングをしたのだといえる。五十嵐氏は、戦後改革から、その後の反動、次々と繰り出される戦後改革をひっくりかえす政策に対して、実践的にかかわる運動体とともに、その実践の正当性を示すための論文を書き続けた。まさしく、実践的な研究者だった。事実は、当然、新しい事態をもたらすのだから、その都度、必要な勉強をし直して、また新たに分野に挑戦しながら、蓄積していった。off-the – job-training ではなく、on-the -job- training をずっと続けたのだともいえる。そして、情勢の変化に、常にあわせて、新たな必要な分野に挑戦していった。
 しかし、他方では、東大教授として、担当の講座教育財政学の体系的な著作を書く必要も、常々感じていたとされる。特に定年間際の数年間、その意欲を強く示し、原稿もかなり書いていたそうだ。しかし、病気になったこともあって、それは完成されることはなかった。
 ただ、健康だったら、完成されたのだろうか、ということも、考える必要がある。まだ十分にその領域で書かれた論文を読み込んでいるわけではないのだが、かなり厳しく考えると、たとえ健康だったとしても、教育財政学の体系的な著作を完成させることはできなかったのではないかとも、思わざるをえないのである。
 学問的トレーニングとして、財政学を学んだことがないということではない。それは十分に自己トレーニングで習得しただろう。そうではなく、財政には、統計に裏付けられた費用区分がある。収入と支出の様々な形がある。その分類は、ひとつには機能的である必要があると思う。そして、機能的な分類による背景には、政策の価値判断がある。その分析は、イデオロギー的な分析になる側面と、価値判断に関する価値自由的な分析もありうる。私が知る限り、五十嵐氏の財政論文は、国家財政の非民主的側面の指摘が柱であり、イデオロギー分析に偏っていた。その基礎として統計的処理をしていたのかも知れないが、少なくとも論文には反映していなかった。五十嵐氏としては、時代の政策への対応として、それが必要だという判断だったのだろう。
 そういう意味で、教育財政学の体系は、かなり困難だったのではないだろうかと思うわけである。それは、前回書いたように、五十嵐氏の研究そのものが、自身に要請された必要に密着してなされたからである。
 結局、前回の結論の再確認なのだが、五十嵐氏の研究から学ぶことは、通常の意味での著作から読み取ることではなく、著作が書かれた社会状況と、それに対応した氏の姿勢のなかで、著作を読むことによってえられるということだ。著作集や全集は、通常編年体で構成されるか、領域区分で構成される。私は五十嵐氏の著作集は、生涯の区分で構成するのがよいと考えている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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