読書ノート『ルポ 大学崩壊』田中圭太郎(筑摩新書)3

 最後に、最も大きな問題だといえるのが、大学教職員への天下りである。以前は、国立大学と私立大学は、職員のありかたが、公務員と私企業に似た相違があった。国立大学の職員は、文科省からの出向という形で、文科省から多数が派遣されていた。キャリアもノンキャリアもいた。また、文科省の出向としては、県や市(こちらは少なかったと思われるが)の教育委員会があった。しかし、現在では、国立大学は、成立形態が違って、「国立」ではないから、以前のように、配置変えのような感じでの出向は少なくなっているようだが、その代わり、天下りで幹部になるケースが増えている。しかも、国立大学から、独立法人に変化し、大学の管理職の選び方が変わってきたので、いきなり学長になったりするわけである。それまでは、学長の選出は、多くが教職員による選挙によっていた。しかし、原則選挙は廃止し、意向調査なるものをやったとしても、選出機関が最終的に決める方式になっている。すると、意向調査で学内の教授が最高点をとっても、選出機関が文科省からの天下りを学長に選出することが起こりうる。そして、実際に起こっている事例が、本書で紹介されている。
 天下りが可能になるように、学長の選出方法を、法で変えてしまったとも、考えたくなる。

 また、テレビの解説者などをみても、元官僚の特任教授というひとがたくさんいることに気付く。なかには、きちんと業績を認められて正規の教授になっているひともいるだろうが、特任教授は、知名度や社会的地位でなる場合が少なくないといえる。しかし、特任教授は、授業をするだけだし、学生の人気が高い授業をやってくれればよいが、大学の管理職につく場合には、まったく事情が異なる。大学の仕組みそのものをかえてしまうこともあるからだ。理事や管理職に、「仲間」を引き入れることから始まり、教員を減らして、管理職を増やして、そこに天下りをつれて来るなど。そうすると、研究機関や教育機関としての機能が、どんどん低下する。大学が食い物にされてしまう。そうした大学が、いくつか紹介されている。
 
 そういう経緯で入って来る管理職が、大学を本当に研究機関として、教育機関として向上させることは、私はあまりできないと考えている。実は、私が勤務していた大学でも、勤務し始めのころに、ひと騒動があった。古い話なので、書いてもいいだろうと思う。
 私が、就職したとき、大学を発展させた一面、腐敗もさせていた理事長兼学長がいた。独裁者のようなものだ。発展させたというのは、学生の応募が期待できる新学部をつくったり、衰退する分野を発展的な分野に編成がえを進めたことだ。現在でも、それなりに安定した応募があるのは、彼の功績といえる。しかし、そうした独裁者(しかも、外から迎えられた)として、何人かの教職員を、正規の募集方法とは違うルートで採用させた。実は、そうして採用された教員のなかに、統合失調症だったものがおり、授業中にも異常な行動をして、学生たちに恐れられていた。あきらかに症状がはっきりしてきたので、授業担当を外したが、ほとんど通常の生活ができない状況になっていたにもかかわらず、やめてもらい、新たなひとを代わりに採用するのに、数年を要したのである。最初は、わからなかったというのではなく、前の職場でも、仕事をできる状態ではなかったので、免職になり、それを承知で、無理やり学部に押しつけたのである。(私の所属学部ではなかった。)
 彼(理事長学長)が行なった採用によって起こった問題は、他にもいくつかあった。最も大きな影響をもったのが、文科省の大物キャリア官僚を、ナンバー・ツーとして迎えたことだった。そして、専門学校の校長と副理事長を兼務していたが、専門学校の経営が急速に落ち込み、数名しか応募がなくなって、当然廃校せざるをえなくなった。その分野はその後も成長した分野であって、明らかに運営上のミスだった。詳しくは書かないが、その後怪文書が飛び交う紛争が起き、副理事長は辞職を余儀なくされ、独裁者の息子が理事長になった。しかし、その理事長も、不正を行なったわけではないが、大きな失策をおかして、多大の損失を生み、大きな騒動になったが、法的責任を問わないかわりに、学長を教職員の選挙で選ぶ(それまでは理事長が自分かお気に入りを指名していた)制度改革を認め、決着した経緯がある。そして、その後、一度も大きなトラブルが発生していない。大学という組織では、学長を選挙で選ぶことが、いかに大切かを、切実に感じたものだ。
 しかし、文科省の大物官僚をやめさせた報復を、その後何度か、文科省からうけることになる。大学院や新設学科・学部の認可で、明らかに不利に扱われることが何度かあった。その証拠はないが、経緯からみて、間違いないと私は解釈していた。
 この前後に、文科省から事務の管理職としてノン・キャリアのひとを受け入れていたが、実際のところ、それほど大きな利益もなく、その後受け入れていない。私が見る限り、横暴なやりかたが目立ち、マイナス面のほうが多かったように思う。
 
 私立大学は、さまざまな面で文科省と交渉しなければならないので、天下りを受け入れているところが多いし、私のいた大学でもある時期そうしていた。もちろん、それで文科省との交渉がスムーズにいく場合もあるのだろうが、大学内でのやり方が、大学にはふさわしくない権力的なやり方で仕切ろうとする者もいて、マイナス面も大きいのである。大学人の見識と努力がないと、天下りの巣にさせられてしまう危険もある。大学は、研究、教育という、ほとんど利益をあげられない組織であるが、研究・教育が使命であるために、運営上譲れない点がある。たとえば、しっかりとした能力と業績がなければ、教師として採用してはいけないということ。その能力と業績は、やはり、その専門のひとが中心にならないと、判断できないものである。しかし、管理側がそこに介入してくると、能力や業績がない人物が採用されてしまうということが起きる。
 教員にしても、管理職にしても、きちんとした採用基準が明確で、かつそれがきちんと運用される必要があるだろう。私は、在職のときから、現場で仕事をしていたひとを、教員に迎えることについては賛成だった。アカデミックな道を歩んできたひとと、現場で仕事をしていたひとの、両方が教育・研究活動をすることは、とてもメリットがあるからだ。しかし、その際、博士号などはこだわらないとしても、きちんと能力を示す材料を提示し、吟味する必要がある。
 それは、管理職であっても同様ではないだろうか。キャリア官僚だった、企業の社長だった、ということが、直ちに大学の運営に力量を発揮する保障にはならない。専門学校を廃校させてしまった文科省官僚の例をみれば明らかだ。
 そういう意味で、大学は、「天下り」をそのまま受け入れるのは、大学の崩壊を招来させる危険があることを、認識すべきであろう。本書は、その警告として、多くのひとに読んでもらいたい。
 近年、日本の大学の研究論文の生産力が落ちていることが、度々指摘されている。様々な理由があるだろうが、文科省という大学に責任を負う官庁が、自らの天下りとして都合がよいように、法改正をするような状態も、研究力低下の要因のひとつではないかと思うのである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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