五十嵐顕考察6 五十嵐顕とは、どんな研究者だったのか

 五十嵐顕著作集の作業が始まった。私は、せっせと、著作のファイル化を進めている。スキャンしたファイルをOCRにかけて、読み取りミスを直していく作業だ。消耗な作業だが、熟読することだと思えば、特に苦痛ではなく、それなりに楽しんでやっている。
 そういうなかで、五十嵐顕という人物が、普通の東大教授のイメージとは、かなり違うひとであるという印象が強くなってきた。実は、私は五十嵐先生の指導生ではない。指導教官は、持田栄一教授だった。それは、大学院に進学したときには、ドイツの教育を研究するつもりだったので、ドイツ留学から帰国して、どんどん成果を発表していた持田教授のほうがよいと考えたからである。ただ、当時大学紛争の雰囲気が冷めやらない時期で、二人の教授は、極めて忙しく外の活動に邁進しており、また、五十嵐先生は、そのうち重い心臓疾患になってしまったので、院生が、親しく研究指導を受けるということはなかった。その時期でなくても、そういう雰囲気ではあったのだが。

 何がいいたいかというと、五十嵐教授は、実はとても縁遠いひとだったということだ。博士課程に進学後は、病気のために、滅多に大学に来なかったということもある。
 それで、いくつかの著書は読んでいたが、熱心な読者ではなかった。だから、今回、かなりじっくりと、ファイルチェックまでしながら読んでみると、五十嵐教授の、特異な面を知るようになった。そして、著作集は、どのように構成されるのがいいのか、考えてしまった。これまで、五十嵐ゼミの有力メンバーだったひとが、構成案を提案しており、それは極めてまっとうなものなのだが、別の可能性も考える必要があると思ったわけである。
 
 では、五十嵐教授の特異性とはなにか。最初に断っておきたいが、五十嵐教授は、非常に優れた研究者であって、今読んでも、説得力のある文章が多数ある。そのことは、間違いない。
 しかし、その特異性だが、東大の教育財政学講座の担当者を、長い間勤めていたにもかかわらず、財政学の著書がないばかりではなく、計画的になされた研究をまとめたという意味での著作がないことだ。もちろん、著書は多数ある。しかし、それはすべて、あちこちにその都度書いた文章をまとめた論文集だ。そして、それらの元になった文章は、私が見る限り、ほとんどすべてが、要請を受けて書かれた、あるいは共同研究の一環として書かれたものだ。自分の意思でテーマを決め、自分の計画に従ってまとめられたと思われる論文は、ほとんどないのだ。
 私は、いろいろな事情から、大学につとめたあとは、(つとめる前から若干その傾向があったが)ほとんど大学内での活動に限定し、学生の指導と、学部の紀要に論文を発表する形をとりつづけた。だから、要請で書いた論文は、逆にほとんどなかった。学会などで活躍していた研究者からみると、引きこもり状態に見えただろう。もっとも、その代わり、本当に自分がやりたい研究をじっくり時間をかけてやったし、本という形での公表は、ごく少なかったが、何冊もの事実上の本をネット上で公開してきた。
 そういう、私の姿勢とはまったく逆で、たくさんの雑誌からの注文をうけ、また、講座を企画するメンバーとして、担当部分を執筆するという論文や小文を、出版社の提案で、論文集としてまとめるというスタイルだ。そして、担当である教育財政学の論文は、非常に少ないのだ。おそらく、要請が少なかったのだろう。
 
 なぜ、そうした論文の書き方になったのか。それは、五十嵐教授が、常に、教育運動の一翼を担っていたからだというのが、間違いないところだろう。
 比較的長い期間、兵隊(くりあげ卒業だから、事実上学徒兵のようなものだった)として海外にいっていたが、帰還して、新しく設立された教育研修所(後の国立教育研究所)につとめ、そこから、東大の講師になっている。そして、教育委員会の調査などをしているうちに、逆コースが始まり、日教組を支える研究・調査が大きな部分を占めていく。勤評、学テ、旭ヶ丘中等々の調査を詳細に行い、その報告書が書かれる。そして、その後もずっと、その時々の教育情勢が求める課題を解くための文章を要請され、それに応えてきたということだ。五十嵐教育学の中核概念として「教育実践」があるが、単に教師が授業で行なう実践を対象とするだけではなく、研究者が、現場の課題に、現場のひとたちとともに取り組むという意味での実践を、常に自ら行い、その課題に応えるための研究をしたことの結果だった。
 
 そういうなかで、直接現場の課題の解決に直結するわけではないが、根本的な解決には必要なものとして取り組んだのが、ソビエト教育学、マルクス主義教育理論の研究だった。もっとも、ロシア語は、元々学んでいた言語ではなく、中高年になってからの学習だったようで、時間の確保も大変だったと思われる。こちらは、私からみて、かなり突っ込んだ研究とはいいがたく、啓蒙的な紹介的論文の域に留まっていたように感じる。マルクス、レーニン、ルナチャルスキー、クララ・ツェトキンに、心酔していたと感じる。
 この研究によって、その後、五十嵐顕として、重大な転機にぶつかることになる。定年になったのは1977年であり、その時点で、『マルクス主義の教育理論』という論文集をまとめた。ソ連のアフガン侵攻も始まっていない時期で、ソ連が崩壊すると、現実的に感じているひとは、ほとんどいなかった。しかし、1990年前後から、ソ連と東欧社会の激動が始まり、ソ連の崩壊と、東欧のロシア離れという事態となる。
 残念なことに、その時点では、再度研究をし直す体力は残っていなかったはずであり、ただ、深刻な反省をしたと思われる。ある教え子に、自分の研究は間違っていた、肯定してはいけなかったことを評価してしまった、自分の教えた教育学は忘れてください、と語ったという。そして、若い時期から、ずっと心にあった戦争責任の問題を中心に語っていく。C級戦犯として、現地で裁判にかけられ、処刑された若い日本兵がたくさんいる。自分もそういう目にあってもおかしくなかった、という強烈な反省意識である。高校生に、戦争体験と、自分は責任を果していないと語る講演をしている最中に、突然倒れ、そのまま亡くなったそうだ。これは、『追悼集』に何人かが書いている。
 私自身は、この点の五十嵐先生に、大変尊敬の念を感じる。ソ連が崩壊したとき、ソ連を高く評価していた研究者たちが、納得できるような「総括」、つまり、なぜ自分はソ連のどういう面を評価していたのか、その評価は、間違っていたのか、その間違いはなぜ生じたのか、あるいは、ソ連は崩壊したが、自分が評価していた側面は、やはり正しく、今後も引き続き追求していく価値があると思うのか、そうならば、それは何故か、等々を、きちんと納得のいくように、考察したひとを、あまり知らない。なんとなく、沈黙してしまったひとが多いのではないだろうか。
 五十嵐先生も、外見的には沈黙した一人なのだろう。総括するような考察をするのは、時間、体力、資料すべてが欠けていたろうから、無理だったとしても、なにかメモのような、あるいは晩年の小文に書かれていないかと、探している。ただ、戦争責任を引き受けるような姿勢で、最晩年を過ごしたことは、ある意味で、過去の教育研究を否定するための実践だったのかも知れない。
 
 1960年代や70年代に書いたレーニン教育論などを、今著作集としてだすことの意味は、あるのだろうかという疑問も、正直ある。『マルクス主義の教育理論』のファイル化が終わったところだが、率直にいって、かなり教条的な感じもある。40代よりも若いひとたちが読んでも、感銘するよりは、拒絶反応をおこすかも知れない。しかし、レーニンは、あの状況の中で、なぜ、そのようなことを主張したのか、そして、五十嵐顕は、なぜ、どのような日本社会、教育の状況を解決するために、レーニンの主張を取り入れようとしたのか、それが、どのように日本の教育を変える力になると思ったのか、そういうことを、冷静に見直すならば、五十嵐の読み取りに、大きな意味を見いだす点があるに違いないとも思うのである。
 著作集としてまとめるには、今後しっかり考えねばならないと思っている。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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