戦争の反省の難しさ 内原郷土史義勇軍資料館

 昨日、水戸市にある内原郷土史義勇軍資料館をみてきた。家を出るときには、同じ水戸市の県立歴史記念館にいくつもりだったのだが、途中で昼食をとり、さて行こうと車で運転しているときに、その看板が見えたので、ちょっと寄っていこうかということになった。偶然入っただけなのだが、かなり興味深かったので、時間をかけて見ることになった。そして、県立歴史記念館にはいかないまま帰宅した。
 
 感想は、少々否定的なものだった。実に詳細に、こまかなところまで資料を集め、わかりやすく展示していたのだが、その基本的立場に、どうしても納得できなかった。
 どういうところかというと、もともと内原の国民高等学校があったところだった。国民高等学校といっても、知らない人がほとんどだと思うが、戦前、デンマークのホルケホイ・スコレにならった、青年のための学校で、正規の学校体系ではないが、義務教育後の学校に行けなかった者や、もっと勉強したい人のために、おもに職業教育的な授業をしていた学校で、全国にあった。宮沢賢治は岩手の国民高等学校の教師をしていたのである。

 
 内原の国民高等学校の校長が、加藤完治だったが、彼が満洲に若者を派遣して、植民をさせることを建議し、それが採用されて、内原で大きな事業として推進されたのである。どういうカリキュラムで訓練が行なわれたか、支給された教科書や服など、丁寧に保存されていたのだろうか、そうした品々が展示されていた。そして、満洲に渡ってからの訓練もよく理解できた。とにかく、軍隊的な厳しい訓練や教育をうけて、やがて畑地を供給され、満洲における農業発展の礎を築いたという。
 しかし、1945年8月9日にソ連か対日参戦し、満洲にいた開拓団は、悲惨な運命をたどった。しかし、逃げ帰ることができたひとたちが、受けた訓練を活かして、各地で農業を興したので、敗戦にもかかわらず、日本では飢餓がほとんど起きなかったのである。
 
 以上のような内容が展示されていた。これをみてわかるように、満蒙開拓団の活動を礼賛していて、その負の側面はまったくといっていいほど、無視されている。現在でも、満蒙開拓団は、満洲に送られ、未開拓の土地を開拓して、農業を盛んにした、と思っている人が多いのかも知れないが、満洲には、当然のことながら、現地の農民が存在していたのであって、多くは、彼らの土地を取り上げて、日本人の開拓団に引き渡したのである。だから、満洲の人々は、土地を取りあげられて、追い立てられたわけだ。もちろん、未開拓の土地を開拓した例もあったろうが、多くはそうではなかった。
 満州事変が、日本の関東軍が仕組んだ謀略であり、満州国が日本の傀儡政権であり、満蒙開拓団は、実際には、ほとんど略奪団だったのである。もちろん、それは戦後、連合軍によって、厳しく追求されることになり、開拓団を積極的に送り出す主体となった、全国の国民高等学校は、すべて廃止されてしまったのである。だから、戦後、国民高等学校なる存在を、ほとんど知る人がいなくなった。
 
 この資料館には、そうした侵略であった満蒙開拓団の活動への、反省がほとんどない。確かに、すべてを否定する必要はないし、そこで行なわれた訓練には、後世記憶すべき要素があるだろうが、全体のなかで意味したものについて、まるで考えようともしないのでは、歴史から学ぶべきことについて、まったく見当違いになってしまう。
 
 
 
 
訓練生たちが居住した建物
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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