成田氏の高齢者問題を解決するためには、高齢者の集団自決しかないという提起が、国際的に問題になっているらしい。そして、そのことがまた日本での議論を再燃させている。そして、賛否両論、相変わらずの構図だが、成田氏擁護の側の議論のあまりに短絡的で視野狭窄的議論が顕著なので、再度書くことにした。
まず、成田氏に限らず、高齢者は若い者に道を譲れという議論は、80歳を超えるような老人がのさばっていて、権力を発揮していることを非難している。しかし、実際のところ、そういう分野は、極めて少ないような気がする。そして、典型的には、政治の世界だろう。確かに、政治家は高齢者集団であり、かつ、活動力に疑問が隠せない人が、いまだに権力をもっているように見える。
しかし、他にそういう分野はあるだろうか。歌舞伎の世界は高齢の人もいるが、若い人や子どもまでもが舞台を飾っているし、スポーツは、当然勝負できなくなれば、引退せざるをえなくなる。そして、大多数の給与生活者は、定年によって嫌でも引退させられてしまうのである。もし、定年がなくなれば、もっと多くの高齢者が働き、年金なども受ける必要がなくなるに違いない。定年の撤廃は若者たちの労働の場を奪うという議論が、若者からなされ、定年は維持されているが、本当は、高齢者問題と若者問題の解決として、「自決論」をとるひとたちが、きちんと議論しているように見えないのである。
更に、農業の分野はどうか。農業は高齢者によって支えられている部分がかなりあり、若者が農業を継がないので、農業をやめていく畑や水田が多い。私が住んでいる地域に、水田はまだまだあったが、どんどん減っている。その多くは、子どもたちが継がないからだ。若者が農業を継ぎにくいという環境や制度があることは事実だが、しかし、やれる環境にあるのにやらない若者は多いのではないだろうか。だから、外国人に頼る部分もかなりある。
企業経営のトップも、高齢者が多いが、彼らは業績によって責任を問われ、経営が悪化したら、株主によって退陣させられることがある存在だ。経営が順調であれば、その地位に留まるのは不当ではない。大塚家具は、高齢の父親に対して、娘が反乱を起こして父親を追い出したが、結局、娘の経営はうまくいかず、他社に吸収されてしまった。
こうした分野では、年齢よりは実力が重要なのであって、若い人にバトンタッチして、悪化した事例だって少なくないのだ。
さて、典型的な政治の分野を考えてみよう。
前回にも書いたが、政治は権力闘争の世界である。権力を握った者が、それを単純に世代交代のために、権力を譲るなどということが、あるわけないし、またそれを期待する若い政治家がいたとしたら、結局、権力をとることなどできないのである。
岸田氏は、長い間、安倍氏が禅譲してくれると期待して、それにかけていた。しかし、結局、安倍氏が退陣したあとを継いだのは、菅氏だった。それで岸田氏が、目覚めて、二階氏と菅氏を妥当して、首相の座をもぎ取ったわけだ。このように、権力は奪取するものなのであって、譲られるものではないのだ。
成田氏にしても、彼を応援するレビュワーにしても、なんと甘ちゃんなんだろうと思わざるをえない。権力を譲るとしたら、それは身内である。だからこそ、二世・三世議員が圧倒的に増えている。
政治というものはそうしたものだから、私はそれに異議を唱えても意味がないと考えている。もちろん、権力闘争の形は、民主主義の世界では、武力ではなく、国民の支持獲得なのだが、選挙を通じて維持されている権力は、選挙を通じて奪い取るものであろう。
全体として、高齢者は若者に譲れなどという議論そのものが、上記の様々な分野での高齢者の存在形態が異なることを無視しており、まったく問題解決の的確な方策を示していないのである。また、農業をしている高齢者から、「早く若者に譲りたいのだが、やってくれるのか?」と言われたら何と答えるのか。
認識の問題もある。
高齢者といっても、団塊の世代が議論の中心になっているが、かなり誤解も多いといわざるをえない。団塊の世代は高度成長期に青年時代を過ごし、猛烈社員としてバブルを生み出し、その結果として、バブル崩壊をもたらしたが、若いころは、幸福な環境で育ったというような前提での議論が多い。
しかし、すべて条件が整っている世代がある一方、すべてが恵まれない世代がある、などということは、通常ないのであって、それぞれ両面があるのだ。
青年時代が恵まれた団塊の世代と、恵まれない就職氷河期の世代という対比がある。
日本的経営としての終身雇用があるが、実際に終身雇用のように運用されているのは、大企業であって、しかも、中小企業の労働環境は、かなりひどかったのである。私の同級生たちも、転々と職場を変える人が多かった。現在の非正規雇用とあまり変わらない。
また団塊の世代は、まさしく受験競争と呼ばれた激しい競争があり、定員の関係で、高校にいけない者がクラスに必ずいたのである。現在、青少年の自殺は、いじめに関連していることが多いが、私の時代には、受験に失敗しての自殺が毎年話題になった。それに対して、少子化が顕著になって意向の世代は、受験競争は緩やかになり、それほど勉強せずに大学に入ってくる学生が多くなった。それは必ずしも悪いことではないが、厳しさが緩和されたことは間違いない。
このように世代を丁寧に検証していけば、それぞれの世代には、特有のプラス・マイナス面があったのであり、世代の特質を単純化することは誤りである。