失敗と中止、正さの担保

 JAXAのロケットの打ち上げが発射直前に中止になったことについて、共同通信の記者が、失敗だったのではないか、とかなり執拗に質問を繰り返し、最後に、「それは一般に失敗といいます」と言い捨てて質問を終わったことが、ネット上で炎上している。
「打ち上げ中止「H3」会見で共同記者の質問に批判相次ぐ ロケットを救った「フェールセーフ」とは」
 ヤフコメでも記者を非難するコメントがほとんどで、擁護するものは見当たらない。しかし、問題を掘りさげるようないい質問だったと思いながら読んでいたところ、最後の捨てぜりふで、印象が確かに変わった。そんなこという必要はなかったように感じた。ただ、圧倒的な非難に晒されるような失言だったかは、また別問題だが。
 

 ただ、このロケット発射については、専門的には、どこがまずかったかを科学的に検証可能であり、完全な成功でも、完全な失敗でもなく、どこかに異常(欠陥)があり、そのために途中で中止され、完全な失敗(打ち上げ後に爆発など)を防いだというのは間違いない。そして、そこを修正すれば、再発射が可能にもなるのだろう。
 しかし、政治などの社会的な分野については、そうした判定そのものが難しい側面がある。判断基準によって、成功か失敗か、勝利か敗北か、政策が正しかったのか間違っていたのか、こうしたことが、同じ対象に対して、人によって違う結論になる。
 
 今大論争中の共産党の党首公選問題もそのひとつだ。多くの政党は、選挙に敗北すると党首が辞任するが、しない場合もある。また、自民党は議席を減らしても「勝利」だと宣言することもある。事前に勝利ラインを低くして、それを超えたから、勝利だというのも、よくあるパターンだ。志井委員長が辞めない理由として、いつもあげているのは、「選挙では敗北したけれども、政策は正しかった」という理屈だ。
 そういうことは、確かにありうる。どんなに正しい政策をかかげていても、なんらかの反対派からの攻勢で、政策が伝わらず、あるいは理解されず、支持をえられなかったということは、いくらでもある。そもそも、独裁国家で、民主主義を主張している勢力は、ほとんどそうした事実を、常に経験しているといえる。また、独裁国家ではなくても、政権党は自分たちの支持を広げるための様々なツールをもっているから、それを活用することで支持を拡大することができる。例えば、「この候補者が当選させないと、公共事業をおろさない、だから、選挙に協力しろ」というような圧力は、おそらくまだまだあるだろう。結果的に、その公共事業のために大きな環境破壊が進行したなどということも起こりうるし、その場合、政権党の政策は間違っており、その反対勢力が正しかったことになる。だが、選挙では負けていた。
 こうした可能性があることを否定すべきではない。
 
 しかし、政策は正しかったというのは、何で検証するのだろうか。単なる自分たちの思い過ごし、傲慢さの現れであるともいえる。政策の正さなどは、あとで科学的に検証して、やり直すことはできないし、また、事前の計画、実行手順、エラー修正回路などを設定して、エラーがでたら中止というわけにもいかない。政治は試行錯誤の連続なわけである。
 結局、大別すれば、政策の正さを担保する原則はふたつになる。
 第一は、専門家が検討して、正しいと認定すること。プラトン以来の哲人王思想といえる。
 第二は、多数が正しいと認めること。現在の主要な政治哲学である功利主義の立場である。
 実際には、政策立案に際しては、専門家の協力によって、これが正しいと考えられる案をつくり、それを市民に提示して、選挙で判断を仰ぐというのが、基本的な「正しさ」の検証筋道になっている。
 
 責任をとるとはどういうことなのだろう。ロケット打ち上げでは、今回は途中のエラー箇所を修正して、再度打ち上げをして成功すれば、辞任などの責任をとる必要はないと認められるだろう。しかし、部分的な修正ではだめで、設計図等に致命的な欠陥があり、再度基本的にやり直さなければならないとしたら、責任論が出てくるに違いない。
 政治とは、ある社会的な課題をどう解決するかを示した政策を、選挙で適切と判断されたものが、実行されることをめざすものである。だから、選挙で支持されない限りは、通常実行さることはない。
 
 そこで志井委員長の20年を超える任期をどう考えたらよいのだろうか。
 「政策が正しい」という信念は、党内での議論、つまり上記1の専門家による判断といえる。おそらく、党内では率直で激しい議論がなされているのだろう。だから、心底自分たちの政策は正しいのだ、と思っているに違いない。しかし、選挙制度というのは、一般市民、選挙民が、その政策の正しさを判断するというシステムである。だから、選挙で負けたということは、選挙民は、その政策を正しいとは判断しなかったことである。
 しかし、外にいる人間には、それはまったくわからない。結論がしめされるだけである。そして、選挙では20年間負け続けている。ごく自然に考えれば、いくら当人が正しい政策であるといっても、選挙民は認めなかったとすれば、政策そのものが間違っているか、あるいは、正しい政策を正確に、理解できるように伝えることに失敗したかである。もし、政策を正しく認識してもらうことに失敗したとすれば、政策を伝える方法が間違っていたのである。
 独裁国家で、批判的な野党が、宣伝の手段を奪われている状況であれば別であるが、現在の日本では、もちろん、メディアの偏向があるとしても、政党に国民に訴えることを妨害することは許されていないし、権力的に抑圧されているともいえない。そうであれば、適切な方法をもって、正しい政策を訴えれは、持続的に負け続けることはないと考えるのが自然だろう。もし、適切な方法をもて正しい政策を訴えても、国民がそれを理解しなかったのだ、と認定するとしたら、それは間違った大衆蔑視であり、傲慢な態度といわざるをえない。
 基本的には、政策の正しさは、様々な例外はあるとしても、選挙での国民の判断によって評価されると考えるべきである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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