松竹氏除名から、民主集中制を考える3

 今回は、次の規約について検討する。
 
2 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民に対する公党としての責任である。
4 党内に派閥・分派はつくらない。
 
 2の項目は、どんな組織でも当たり前のことで、自民党でも、この点についての異論はないに違いない。Aということを決定したのに、Aに反する行動を、ある党員がとったら、それは処分に値いするだろう。
 しかし、考えねばならないのは、いわゆる「民主集中制」と言われてきた原則は、第一回で紹介したように、「下部は上部の指導に従う」と理解されてきた。事典などでの説明でもそうなっている。そして、全国的、あるいは国際的な課題については、全国的なレベルの組織でのみ扱うことが規定されている。このふたつの原則を組み合わせると、自衛隊、安保条約、ウクライナ支援、そして、党首公選問題などは、支部では扱わないことになる。従って、支部にしか所属していない党員は、こうしたことについては、中央で決定したことに従うことが求められる。所属のところでは議論できないわけである。少なくとも、規約を見る限りではそうなる。

 ただし、出典を示すことは今できないが、中央、県、地区、支部は、上下関係ではなく、対等であると述べられていたと記憶する。つまり、上下関係だという認識と、上下関係ではなく対等であるというふたつの説明がある。これは、非常に重要な相違であり、あいまいに運用されるべきことではない。
 
 似たような事例で、文科省・県教育委員会・市町村教育委員会という構造がある。法的には、明確で、これは対等の関係であって、上下関係ではない。しかし、国民の多くは、上下関係だと思っているに違いない。誤解もあることは、確認しておく必要があるのだが。
 今は上下関係としての側面は弱くなっていると思うが、かつては、実質的に上下関係といえる状況だった。それは、市町村の教育長は県教育委員会の、県教育長は文部省の承認が必要だったからである。人事を握られれば、要請に答えざるをえなくなるから、自然に上下関係になってしまう。長野県で、在日のひとを教員として採用しようとしたら、外国人は認めるなという文部省の圧力で断念したことがある。教育長の任期切れが迫っていたために、従わざるをえなかったのである。現在はこの人事権が廃止されているので、実質的な対等関係構築が多少とはいえ進んでいる。
 また、市、県、国の議会、首長の関係についてみよう。
 当然、市議会は県議会の、市長は県知事の下部機構ではない。独立した対等の関係である。もちろん、委任関係などの法的規定で、ある場面では上下関係になっている部分があるが、基本は対等である。その対等性は、それぞれ選挙区で規定された住民の投票によって選ばれることが、ひとつの対等保障になっているといえる。もちろん、それぞれの担当領域が決まっていること、それぞれの財源をもっていることなどもある。
 しかし、規約で見る限り、共産党の支部、地区、県、中央の関係は、委員の選ばれ方が異なる。それぞれの委員は指導部の推薦とその承認で選ばれる。指導部のトップはひとつ上の委員になっていることが多いと考えられるから、結局、委員や指導部が、中央の指導部から、順番におりてくるような仕組みで委員が選ばれる仕組みになっているように思われる。もちろん、すべてがそのようにスムーズに運営されていない場合もあるだろうが、松竹氏の著書を読む限りは、そのようにいえるだろう。それと、上部の指導に下部は従うという原則が合わされば、必然的に中央の意向で全体が運営されることになるはずである。
 だが、そうした原則は、この民主集中制を規定した規約には、書かれていないことは、銘記されてしかるべきである。
 
 次に「派閥」「分派」について考えてみよう。
 共産党も、党内に多様な意見があることを認めており、意見の違いで排除することはないと確認している。実際の運用がそのようになっているかは、知る由もないが、多様な意見があれば、近い見解をもつひとたちのグループが発生することも、ごく自然なことだろう。それをなんと呼ぶか、また、派閥、あるいは分派なのかどうか、ということの定義が可能か。 
 私は、その定義化はかなり困難であり、また無意味で、必要なのは、意見の違いから、どういうことをしたら、許容範囲でなくなるかを明確にしておくことだと考える。
 そこで、私が組織の責任者で、組織員がどのような行為にでることを禁止し、どこまでは許容できるかを考えてみたい。
 
 政党にとって、最も重要なのは、政策形成だから、意見発表と交流が柱となっているはず。いかなる議論でも、党内のツールを使って発表する限り、許容すべきである。決定に従う限りは、決定に疑問を表明することも認めるべきだろう。(この場合、前に書いたように、広く党員全体で党議できるようなツールを設定する。)
 では、決定に反対する意見を広めるために、また、そうした反対意見をもっている者同士の議論をするために、党内のツール以外のツールを設定し、そこで閉鎖的な議論を始めたらどうか。もしそういう意見交流が存在していることを察知したら、まずは、党のツールに戻り、他の意見のひとたちとしっかり議論をするように説得するだろう。同時に、そのツールを廃止するか、あるいは、他のひと(つまり彼らと反対の意見のひとたち)が自由に参加できるように変えさせる。
 しかし、それに従わずに、相変わらず独自閉鎖的ツールで、同じ考えのひとたちとの交流を続けたらどうするか。おそらく、そういうグループがあることを全体に知らせて、どうすべきかを議論させる。もちろん、そのグループの人間も含めて。
 
 では外部のツールを使った場合はどうか。私は、内部の特別閉鎖ツールと同じ扱いでよいと思う。そもそも、異論が外部に可視化されることはマイナスだという感覚が、共産党指導部にはあるように思われるが、異論が外部に見えないことのほうが、マイナスである。人間である以上、意見の違いがあるはずなのに、それが外部にまったく見えないとしたら、不気味に映るのではないだろうか。また、何度も書くが、現在の民主主義の基準は、透明性、つまり可視化されていることが中心だ。決定過程が可視化されていないことは、民主主義的ではないとみなされる時代なのである。
 
 さて、閉鎖的ツールを恒常的に使用するとしたら、離党勧告をする。それでも留まっている場合には、党内論争を継続することになるだろう。
 では、除名処分はどういうときか。(違法行為などの場合はここでは除く)
 それは、党の決定に反する「行為」を実行したときである。議会で、党決定による党議拘束に反して、逆の投票をする。あるいは、党首公選を主張するグループで、実際に投票を行い、「我こそ党首だ」と名乗る。党の決定と明らかに敵対する主張のデモや集会に参加して、それを明示する。こういう行為は、党から、最終的には排除するのが当然だろう。
 つまり、明らかに、党決定に反する「行動」に出たことをもって、除名などの排除にでるべきであって、言論としての反対表明は、最大限でも離党勧告なのではなかろうか。それが、異論を理由に排除しないことの意味ではないかと思われる。
 
 以上検討しての結論であるが、私は、規約3条に規定された民主集中制は、組織として極めて重要であり、正確に実施されるべきだと思う。しかし、実際に共産党が今回の除名実施に見せた姿勢は、民主集中制を規約のレベルではなく、レーニン以来の歴史的残留物を払拭せずに行なった、規約とはずれた措置であると思う。歴史的遺物を、現代社会にふさわしい形で、捨てたり、改善したりする必要があるのではないだろうか。そうしなければ、ますます支持者を失っていくに違いない。
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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