松竹氏除名から、民主集中制を考える1

 この間、松竹氏除名問題に関連して、いろいろと考えてきたが、民主集中制についてもう一度考えてみたいと思った。ヤフコメなどを見ても、民主集中制については、独裁の元凶であるという理解が圧倒的に多い一方、共産党は、優れた民主主義的な組織論であるとしている。
 かなり前のことだが、自民党のある有力議員が、民主集中制について、「極めて当然のことで、それを実行できている共産党がうらやましい」と語っていたことがある。自民党にとっても、当然の原則であるというのである。こうしたひとつの原理に対して、民主主義を肯定する立場から、まったく逆の立場が存在し、自民党と共産党が、表面的には、当然視しているという事実。これは、やはり、深く掘りさげる必要があると思うのである。
 ブリタニカ(https://www.britannica.com/topic/democratic-centralism )やウィキペディアなどの辞書的説明では、共通して、ロシア革命のなかで、レーニンによって定式化された原則で、中央が統制するシステムであるとし、下部は上部の指導に従うことを強調している。しかし、レーニンが定式化したのは、100年も前のことであり、レーニンの組織論は、帝政ロシアの弾圧下、そして、革命後も外国の干渉との闘いという、当時のロシアの政治状況のなかで主張されたものである。現在の日本の状況とでは、政治状況が大きく変わっているだけではなく、民主主義のあり方や民主主義の考え方も大きく変わっている。

 従って、ここでは、そうした一般的な受け取りから離れて、民主集中制のあり方、そして共産党がそれを規定している規約3条を、今日の民主主義的常識で、また、文章そのものを論理的に読んで、民主集中制のあり方を考察してみたいと思う。
 もう一度、民主集中制について規定しているとされる、共産党の規約を確認しておこう。
 
 規約3条
党は、党員の自発的な意思によって結ばれた自由な結社であり、民主集中制を組織の原則とする。その基本はつぎのとおりである。
1 党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める。
2 決定されたことは、みんなでその実行にあたる。行動の統一は、国民に対する公党としての責任である。
3 すべての指導機関は、選挙によってつくられる。
4 党内に派閥・分派はつくらない。
5 意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない。」
 
 民主集中制は英語では、democratic centralism というそうだ。要するに、日本語でも同じだが、民主と集中のふたつの概念の統合概念である。前にも書いたが、規約3条では、135が民主であり、24が集中である。この5つの具体的規定以外に、必要な概念があるかどうかは、とりあえず問題にせず、この5つの原則を実施するとは、どういうことなのかを考えてみよう。
 
 どこから出発するか。組織ができれば、必ず、まず指導部を選出するだろう。従って、3が最初に検討される必要がある。
 「すべての指導機関は、選挙によってつくられる」というときの、「選挙」が民主的であることの要件が検討される必要がある。松竹氏は党首の選挙を党員全員が参加する形で実施せよと主張しているが、それに対して、除名を決めたひとたちは、公選は派閥や分派を生むから、4に違反することになるという。この当否は置いておき、「選挙」が選挙らしく機能する条件を整理してみよう。
ア 立候補の資格と、投票権の資格が明示されていること。
イ 投票プロセスと、当選の条件が明示されていること。
 これだけでは、選挙が民主主義的であると認定することはできない。
ウ 立候補の資格があれば、複数の候補が容認され、それぞれの主張を投票権をもつひとに訴えることが保障されていること。
(なお、党首公選を実施している政党の多くは、国会議員と一般党員の、投票の重みに差を付けていて、国会議員の得票のウェイトが大きくなっている。これは、一般党員と国会議員、あるいは地方議会議員の責任の重さ等を考慮した措置であり、こうした差が直ちに民主主義に反するかどうかは、議論の余地があること、また共産党は公選を実施していないので、その検討の必要はないだろう。)
 これらの点を具体的に検討していこう。選挙に関する規約は以下の通りである。
 
第3章 組織と運営
第十二条 党は、職場、地域、学園につくられる支部を基礎とし、基本的には、支部――地区
――都道府県――中央という形で組織される。
第十三条 党のすべての指導機関は、党大会、それぞれの党会議および支部総会で選挙によって
選出される。中央、都道府県および地区の役員に選挙される場合は、二年以上の党歴が必要であ
る。
選挙人は自由に候補者を推薦することができる。指導機関は、次期委員会を構成する候補者を推
薦する。選挙人は、候補者の品性、能力、経歴について審査する。
選挙は無記名投票による。表決は、候補者一人ひとりについておこなう。
 
 一般的な意味での「選挙」とは、かなり異なることがわかる。それぞれのレベルの党組織の指導層を選挙で選ぶが、候補者は「推薦」されることになっている。推薦するのは、選挙人及び指導機関である。つまり、立候補は想定されていないようなのだ。通常、選挙といえば、候補者は立候補制ではないだろうか。少なくとも政治組織においては、立候補という制度が不可欠であるだけではなく、中心的なものである。そして、候補者の誰を選ぶかを投票するのが、通常の選挙である。しかし、ここでは、推薦された候補について、「審査」した上で、候補者一人一人について表決をするという。つまり、信任投票ということだろう。結果に関する規定は、この規約には見当たらない。信任票が何%以上であれば、当選というような規定がない。また、人数の規定もない。しかも、審査がどのようになされるのか、具体的にはわからないが、その対象が「品性、能力、経歴」となっている。つまり、考えや政策は対象ではない。支部とか地区ではなく、都道府県や中央の選挙にも適用される原則だ。
 企業での各部署の責任者を選ぶのではなく、少なくとも政党である以上、政策に対する考え方が選ぶ判断対象とされないことに、かなりの違和感を感じるのは、私だけではないだろう。自民党の総裁選は、少なくとも表面的には、激しい政策論争だった。
 指導部が推薦するのだから、それ以外に個人が誰かを推薦することは、あまりないに違いない。結局、指導部に推薦されたひとが、信任投票で全員選出されるのではないかと想像できる。つまり、指導部の改選が行なわれても、その指導部の意向が次期指導部の選出に、ほぼその通り反映される仕組みといえる。
 確かに、このやり方なら、分派も派閥もできないだろう。しかし、複雑な政治課題に対して、議論を尽くしたり、新たな課題意識をもって取り組む姿勢は、出てきにくいと思わざるをえない。システムそのものが現状維持的になっている。私の感覚では、これは「選挙」ではない。少なくとも、通常の「選挙」制度は、排除されていると考えざるをえない。つまり、上に書いた、民主主義的な選挙の要件としての(ウ)は、否定されているといえる。
 もちろん、こうしたことが、まったく民主主義を否定するやり方だというつもりはない。こういう方法もありだろう。
 立候補が普通であり、政策を党員に広く訴えることが可能としたら、その方法などについて検討する必要があるが、(ウ)が想定されていないので、その問題は「民主的議論」の部分で扱うことにする。
 次に1の「民主的議論」と「多数決」について検討するが、長くなったので、次回にする。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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