真に惜しまれる夭折作曲ビゼー

 年末のベートーヴェン第九が終わり、次の私の所属市民オーケストラの曲目に、ビゼーの「ローマ組曲3番」が入っている。まったく知らなかった曲で、団員もほぼ初めて知る曲だろう。CDもごく3枚程度しか出ていない。不思議なことに、3番といっても、1番と2番があるわけではないので、番号なしに「ローマ」と呼ばれることもあるようだ。何度か書き直して、長い間に変化もして、出版はビゼーの死後だったこともあり、そうした不可解なネーミングになったようだ。演奏困難なので、あまり演奏されないと、ウィキペディアに書いてあったように思うが、プロオケにも難しいほどではないが、アマチュアには、確かにやっかいな部分がある。でも、第3楽章などは、アルルの女のアダージェットを思わせる、非常に叙情的な曲だ。ビゼーがローマ大賞を得て、イタリアに留学したノルマとして、作曲したので、いかにもイタリア的な要素も随所に感じられる。

 
 ビゼーというと、私は、本当に惜しくも夭折した作曲家という印象が強い。そうした作曲を3人あげるとすると、あと二人はモーツァルトとシューベルトだ。19世紀くらいまでは、平均寿命は短かったから、天才たちも早く死んでしまう人も少なくなかった。特に、天才作曲家は、演奏に作曲に張りつめた生活をしているので、消耗が激しいのかも知れない。メンデルスゾーンは、38歳という若さで亡くなったが、死に際に、「疲れた」と語ったそうだ。
 あまり好ましくない言い方かも知れないが、夭折した作曲家は、モーツァルトのように、どうしてあと5年は作曲活動をしてほしかった、そうすれば、その後の音楽界は違う様相になったのではないかと思われる。そうした惜しまれるひとと、既に創作力を低下させていて、長生きしても、それほどの傑作を生み出せなかったのではないかというひとがいる。後者は、メンデルスゾーンやショパンだ。実際に長生きしたが、作曲活動は、ほぼ中年で終わってしまった作曲もいる。ロッシーニやシベリウスがそうだ。メンデルスゾーンやショパンも、シベリウスのようになっていたかも知れない。そうした作曲家の特質は、非常に若いころに生み出した傑作と、最期のほうに書かれた曲が、あまり異ならないことだ。メンデルスゾーンが17歳で作曲した「真夏の夜の夢」序曲は、晩年に劇音楽として作曲した「真夏の夜の夢」に、そのまま序曲として採用されたが、まったく不自然さを感じさせない。逆にいえば、あまり質的な進歩がなかったということだ。
 しかし、モーツァルトが17歳のときに書いたオペラの序曲を、ドン・ジョバンニに転用したら、まったく違和感が生じるだろう。10代のモーツァルトと30代のモーツァルトは、比較にならないほどの違いがある。モーツァルトの凄さは、比類のない神童であったにもかかわらず、歳とともに、大きく成長を続けたことにある。
 シューベルトは、19世紀後半に現れた作曲家が、まだまったく成功作を生み出せなかった年齢で、亡くなってしまったが、その時点では、膨大な数の名曲を生み出していた。そして、彼の晩年では、ますます創作力は大きな広がりを見せていた。
 
 それに比べると、ビゼーは、確かに若く亡くなったが、モーツァルトやシューベルトのように、早くからたくさんの傑作を生み出したわけでもなく、そんなに惜しむべきひとなのかという疑問をもつかも知れない。
 しかし、ロマン派以降になると、特にオペラで20代はじめに傑作を残すことなどは、ほとんど不可能になった。音楽が複雑になり、オーケストラも巨大になるから、作曲ですら経験の積み重ねが必要となってきたからである。成功を収めて、大作曲家になるきっかけとなった作品を生み出した年齢をみると
 ヴェルディ 「ナブッコ」29歳
 プッチーニ 「マノン・レスコー」35歳
 リヒャルト・シュトラウス 「サロメ」41歳
 
 このように見ていくと、ビゼーが「カルメン」を作曲したのは、36歳であって、前に「真珠取り」である程度の成功をおさめているから、3人の偉大なオペラ作曲家に比べても、実は、遜色のない出発をしていたのである。3人のように、長生きしていれば、ビゼーがどれだけ優れた作品を生み出したか、想像できようというものだ。
 そして、あまり知られていないが、ビゼーは若いころから、その天才を周囲から認められていた。パリ音楽院でグノーに高く評価されており、17歳で作曲した交響曲は、生前演奏されることはなかったが、後に発見されて、現在では人気曲である。
 あるとき、リストがパリにやってきて、新作の超絶技巧を要するピアノ曲を、弟子のハンス・フォン・ビューローに披露させた。そして、この曲を弾けるのは、私とのこのビューローだけだろうと、述べたのに対して、聴きにきていたグノーがビゼーに「弾けるか?」と問い、ビゼーが初見で見事に弾いてみせた、という話がある。ビゼーがいかに天才的な能力をもっていたかを表している逸話だ。
 しかし、作曲の面で、20歳そこそこの新人が、容易に認められるような時代ではなかった。それでも、真珠取り、アルルの女と確実に芸風が充実していき、確固たる地位を占めることを保障するような「カルメン」作曲後、比較的早く亡くなってしまった。カルメンは、現在、オペラの最大人気曲である。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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