親中国の国が増えているというが

 『選択』という雑誌の12月号に、「「親中国家」静かなる増殖 自由主義陣営はどう巻き返すか」という記事がある。明らかに不当な侵略戦争をしているのにもかかわらず、ロシアを非難しない国家は多数ある。そして、先日開催されたG20では、自由主義陣営と親中国の陣営が、ほぼ同数になったという。もちろん、ロシアのウクライナ侵略への是非の分布ではないが、中国が次第に自らの陣営に参加させている国家が増えている一方、自由主義陣営のやり方に対する疑問が、露になる機会が目立つというわけだ。その典型が、カタールで行われているサッカーW杯という。同性愛に厳しい政策をとるカタールに対して、EU諸国、特にドイツが抗議の意思を明確にしたことに対して、政治をスポーツに持ち込むものだという反感が強くだされた。ここに象徴されるように、自由主義陣営は、民主主義的な価値を押しつける。西欧的価値観に沿わないまま、それを維持しようとすると、経済的、政治的圧力をかける。それに対して、中国は、それぞれの国の内情には、あまり首を突っ込まない。だから、つきあいやすいというわけだ。

 もっとも、アメリカは常に民主主義の国家とつきあい、独裁国家には制裁を加えるような立場をとってきたとはいえない。最近は微妙な関係になっているが、かつてはサウジアラビアは極めて親密な関係を保っていた。サウジアラビアがいかに、国民に対して抑圧的な政策をとっていることが明らかだったとしてもだ。だから、アメリカの外交が、単純に民主主義的な価値を重んじているかによって決定されるわけではないが、しかし、軽視しているわけでもないし、独裁を理由に、国家的圧力をかけることが少なくないことも事実だ。イラン、北朝鮮、キューバ等々。
 昔から、独裁国家での国民への暴力的弾圧に対して、外国が干渉すべきかどうかは、大きな議論となっていた。独立国家の政策に外国が否定的に介入するのは、通常は内政干渉となり、批判される。しかし、その国の人々が非道な扱いを受けているのを見過ごすことも、また、批判されるべきことである。となりの家で、子どもが虐待されていれば、近所の住民は最低限警察に通報する。しかし、何をもって虐待とするかは、実は文化によって異なるものだ。
 
 私が一家でオランダに一年間住むことになったとき、特に注意されたことは、子どもだけを残して、親が外出しないようということだった。ヨーロッパでは、小学生くらいまでの子どもを家に残して、親が外出することは、放置=虐待とみなされ、警察に通報されるというのだ。実際に、そういうニュースを見ることもあった。日本では、普通に行われているし、それは留守番だと意識されている。虐待は犯罪であることには異論がないとしても、何をもって虐待とするかは、文化や社会にとって異なるわけである。オランダに住んでいる日本人を、オランダ的価値観で対応することは、「郷に入れば郷に従え」というように、合理的であるといえるが、留守番の文化として扱われていることについて、欧米が、日本の虐待への扱いは不十分であり、日本でも子どもに留守番させる親は、犯罪者として扱え、というとしたら、多くの日本人は納得しないに違いない。
 実際に、留守番している子どもが、誘拐されたり、他の事故・事件に巻き込まれている事例が多発しているにもかかわらず、それを放置しているとしたら、留守番への注意喚起が必要であるし、放置として問題視する必要があるかもしれない。しかし、やはり、虐待の感覚には、文化の差があり、それには寛容が必要だろう。
 
 LGBT問題は、現在の欧米民主主義国家では、大きな問題となっている。日本でも、様々な組織で適切な対応が求められるようになっている。私が勤めていたときにも、「学生にLGBTの人がいるので、適切に注意してください」というような紙が配布されることがあった。しかし、誰がその対象なのかはわからないし、適切な注意とは何が示されることもなかった。だから、率直にいって、どうしたらいいか、わからなかったというのが、実情だ。おそらく、大学の教職員も、特に担当者もわからなかったのではないだろう。ただ、LGBTであることによる差別的な扱いは、許されないという点では、共通の感覚があったといえる。私の勤めていた大学は、寛容の雰囲気が比較的強かったからである。
 私自身は、そうした傾向について、まったく意識をすることがなかったし、誰が対象になっているかを注目することもなく、ようするに、学生はみな個性的な存在であるから、それぞれに違うのだと感じていたし、それぞれの個性について、是非を問うような発想自体がなかった。だから、差別をすることもなかったといえる。
 しかし、LGBT問題については、当事者たちの主張に疑問をもつこともある。ひとつは、性転換手術に保険を適用させることである。昔は、同性愛は病気と考えられていた時期がある。しかし、現在は、それは個性ともいうべき性質であって、決して病気ではないと主張されている。それは、私も同意する。だが、それなら、何故わざわざ手術をするのだろうか。もちろん、それを望む人はそうすればよく、批判するつもりはない。しかし、健康保険は、病気を治療するために必要な高額の治療費を、保険として負担軽減をするものである。病気の治療以外に支出することは、健康保険の制度原則に抵触する。性転換手術をしたからといって、本当に性が変わるわけではなく、単に外形が変わるだけであり、形成手術に過ぎない。通常、形成手術は健康保険の対象ではない。それは、人の好みの実現だからである。そうした要求やその実施を否定するつもりはないが、少なくとも病気の治療ではないものに、健康保険を適用させようとするのは、私は不当な要求だと思う。もっとも、それは実現しているのだが。
 
 このように、先進欧米諸国で強調されている価値については、かならずしも普遍的な正当性があるわけではない。従って、その特別な価値を他国に押しつけ、それが守られていないと民主主義ではないとか、人権が軽視されているとするのは、ときには、偏見の押しつけととられかねない。そういう側面もあることを、「自由主義」の陣営では認識すべきである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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