宮台真司氏が襲われる

 都立大学教授の宮台真司氏が、大学構内の歩道で襲われたと報道されている。まず頭を殴られ、そして、首の周囲を数回切りつけられたという。首の周囲を切ろうとするというのは、殺意を感じる。4時半頃というのだから、おそらく、まわりに人がけっこういたのではないかと思うのだが、都立大学のキャンパスは行ったことがないので、もしかしたら、ほとんど人目につかない場所があるのかも知れない。目撃者はいなかったのだろうか。それにしても、大学のキャンパス内の歩道で、殺人未遂のような行為が実行されたというのは、かなり衝撃的である。日本もアメリカに近づきつつあるのだろうか。

 一般的に、大学キャンパスは、だれでも出入り自由である。都心にある大学などでは、一般の人が食堂を利用することも、珍しくない。安くて栄養もバランスがとれているメニューが多い。図書館も開放している大学が多いだろう。また、極端な事例かも知れないが、私が勤めていたいた大学では、ある時期に住宅専有区域に指定されて、高層建築が許可されない時期があった。それをなんとか解除してもらうためには、住民の同意が必要ということで、住民と話し合いをした結果、大学周辺に住む人は、かなり回り道をしなければならないので、大学構内を通行できるようにしてほしいという交換条件を出されて、新たに正門の反対側に門を設置して、住民は通勤のために構内を通って、行き来することができるようになっていた。だから、部外者を入れないということができない。
 正門で部外者立ち入り禁止となっていても、実際には自由に入れる大学がほとんどだと思う。池田小学校事件のあと、高校以下の学校では、出入りが制限され、特に東京の小学校では、常に門が閉まっていて、インターホン越しに許可されないと入れないようになった。始業時間が決まっているために可能だが、大学は教員も学生も、個々人の登校時間が異なるから、門を閉ざすことは、事実上不可能だろう。
 報道へのコメントで、アメリカではハーバード大学ですら、建物に入るための認証システムがあるというのがあったが、銃乱射事件が頻繁におきているアメリカとは、まだまた状況が異なるので、そこまでする必要があるとは思えないが、やはり、なんらかの必要な対応をとる必要はあるに違いない。
 対応策として、個人レベルと組織レベルでわけて考えてみたい。
 
 被害者が宮台氏であると聞いたときに、ありうることだと感じた人は多いようだ。もちろん、絶対に許されることではないが、個人的な反感をもたれるという意味では、その可能性が普段から感じられたということも、否定できないのである。だから、そういう恨まれる対象にならないための個人的に注意すべき点もあると思う。ネットのコメントをみても、宮台氏のものの言い方に、共感できないものを感じていた人はけっこういた。私も、何故なのような表現をあえてするのか、疑問はもっていた。だからといって、暴力を行使することが許されないことは当然である。
 
 個人的な恨みだとすれば、可能性は
学生・院生、卒業生の場合
・つけられた成績で、進路や就職で不利な状況に追い込まれた
・講義やゼミ、その他の場所で、著しく人格を傷つけられたと感じている
一般人の場合
・書籍、メディア、ネット等で、自分の考えを激しく非難された
 私自身、学問的に他人を批判することが多かったから、こうしたことで、反感をかわないように、日常的に注意していることは確かだ。
 特に成績については、かなり気をつかった。
 まず、成績について不満がある人は、遠慮なく申し出るようにいい、大学には成績確認用紙があって、納得できない場合、正式にその旨を伝える様式があった。それも積極的に出すように促していた。用紙には、理由を明確に書いたし、実際にやってきた人には、どこが悪いか、また、いい成績をとった人は、どんなレポートや答案を書いたのかをみせて、納得させた。試験は一教科しかやらなかったし、かなり難しい試験をしたので、それに不満をいってくる学生はほとんどなかったが、レポートは、インターネット上の掲示板に書くことになっていたので、誰にも参照でき、従って、よい成績の学生のレポートを、本人が自分で確認できるようになっていた。だから、そうした説明をしても、なお納得できないという学生は、少なくとも、私の認識している限りでは、いなかったと思う。悪い評価をつけなければならないことは、実際にあるし、それを甘くすることで、反感をかわないようにするのは、間違っている。だが、納得させる努力はしなければならない。
 就職については、私のゼミ生は、多くが教員採用試験を受ける学生だったので、そのための準備はずいぶん応援したから、学外の試験であり、落ちたことで恨まれるようなことは、まずなかったと思われる。
 
 私は、数年間、ネット上で、激烈な論争をするフォーラムの責任者をやっていたことがあり、激しく荒れた会議・論争などをずいぶん経験したが、そこでの経験は非常に役にたった。簡単にいえば、「相手を強く批判するときには、最大限丁寧な表現をする」ことが大事だということだ。そんな馬鹿をことをいう奴は、くだらん、的な表現をする人が少なくない。しかし、それで相手に再度考えさせることなどできないし、自説に固執させてしまうだけなのである。論争は、自分の考えを相手に認めさせることが目的なのだから、相手に、最低限聞く耳をもたせねばならない。聞く姿勢をオープンにさせる必要がある。そのときに、相手を罵ることは、逆効果であることは自明だ。
 こちらが丁寧な表現をしていれば、相手も罵倒を返すことはしない。そこで、議論は、論理的に進めることが可能になるし、感情的なしこりも残らない。相手にこちらがわの論理を認めさせることも可能になる。
 
 こういう姿勢をもって議論していたから、私からすると、宮台氏の話し方には、やはりきわどさを感じていた。荒川強啓の宮台発言は、ラジオはよく聞いていたが、非常に説得力のあることを言っているのに、なぜ、あんなに汚い言葉を使うのだろう、あれでは、宮台氏の主張には耳をふさぎ、罵倒語への反感だけが残ってしまうのではないかと、いつも感じていた。あれだけ頭のいい宮台氏が、なぜあのようなマイナス効果の行為をしてしまうのか、いつも不思議に思っていた。復讐心のような感情をもつ人だっているのではないかと思ったのは、正直なところだ。
 
 システムとして、どう対応できるか。
 残念ながら、日本の大学でできることは、あまり思いつかない。
 アメリカには、大学だけではなく、スクール・ポリスがある。また、アメリカの大学のいくつかには、「脅威評価」を行う委員会があり、対応をとろうとしているという。危険を感じた学生等を対象に、心理学、警察、精神科医等々が検討して、本人にも通知した上で、犯罪に及ばないようにするための委員会だという。
「大学内での凶悪犯罪を未然に防げ!」
 しかし、効果のほどは、あまり芳しくないようだ。
 日本の大学は、少しずつ雰囲気が変わっているのかも知れないが、まだまだキャンパス内で凶悪犯罪が行われるようなことは、滅多に起きない。少なくとも、各人が自らの言動に気をつけるようになれば、ほとんどは防げるレベルではないかと思う。だから、組織的には、どのような言動に気をつければいいのか、啓蒙活動が中心となるのではないか。これは、教員に対しても、大切なことである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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