旅行記録を休みにしていたが、四国から九州にやってきた。九州の旅が、今回の目的であった。妻が九州の出身で、しかも、義務教育の期間に、9回も転校したために、その足跡を確認しておこうということだった。しかし、そうした私的な部分は、より一般的な意味をもつ場合だけ書くことにする。
九州にわたって3日目に、熊本城をみた。私は、高校生のときに修学旅行で熊本城を訪れ、天守閣を最上階まであがったことを、はっきりと記憶している。途中に甲冑などが展示されていた。また、天守閣は、意外と小さい建物だというのも、そのときの印象だ。今回、ぜひ熊本城を訪れたいと思ったのは、やはり、その修復の進み具合を見たかったからだ。
日本の建築物は古いものが多く残っているが、それは極めて幸運に恵まれたからで、なんらかの理由で消滅してしまった建築物のほうが圧倒的に多い。藤原頼通の平等院は残っているが、父道長の法成寺は鎌倉時代に消失したとされる。近い時代では、江戸城は度々の火災にあい、天守閣は再建されずにきた。地震で倒れた建物も大いに違いない。
また、日本の城は、明治なって破壊されたものがほとんどであり、わずかな城の一部が例外的に残っている。熊本城は、その例外的な、かなりの部分が残った数少ない城だった。ところが、熊本地震によって、天守閣や石垣がかなりの程度損傷を受けた。しかし、その後復興事業が継続して行われている。寄付もかなり寄せられているそうだ。
石垣はかなり崩れかたが酷かったとされるが、現在は、崩れないように網をかけている部分や、個々の石を取り出して、おそらくどのように組みあわせるか、これから検討するものなど、気の遠くなるような作業が必要なのに違いない。
天守閣は近くに行けなかったので、詳細はわからないが、遠くからみている限り、それなりに復元工事が進んでいるように感じた。天守閣以外の建物は、これからだろう。
復元されたとき、熊本城は再建された城なのか、それとも江戸時代の姿を伝えている城なのか、どちらに属することになるのだろう。天守閣も石垣も、すべてが壊されたわけではなく、損傷を受けただけだ。だから、その部分を修復し、新たな材料で作り替えて、はめ込むような部分もたくさんあるに違いない。だから、以前の天守閣の一部は入れ代わっている。
名古屋城の復元形態が、近代的要素(例えばエレベーター)をいれるかなどで、かなり対立があったことは記憶に新しい。
世界最古の木造建築といわれる法隆寺も、もちろん、建てられたときの材料で、そのまま残っているわけではない。木材は、どんなに優れた材料を使い、理想的に建築されても、1500年もそのままの形で維持されることはない。だから、部分的に、材料は新しいものに入れ換えられてきたのである。そうした作業は、特別な訓練を受けた「宮大工」が担当してきた。しかし、現在は宮大工はほとんどいなくなったとされており、熊本城の復元工事に、宮大工がかかわっているのかどうかは、私はわからない。しかし、植林から始める宮大工の作業の様式が、熊本城にとられているとは、あまり考えられない。
前に書いた平城宮復元だが、復元されている朱雀門と大極殿は、柱が朱色に塗られているが、近くでみると、かなりひびが入っていた。奈良時代の伝統的な様式による復元工事をしたと説明されているが、まだ、朱雀門は25年、大極殿はまだ1年しか経過していない。こんなに早くひびがはいるのだろうか。
復元の難しさだが、維持されることの難しさを感じる。
話は変わるが、維持という点で、この旅行で驚いたのは、妻が通っていた幼稚園が、ほほ、そのままの校舎で現在も運営されていたことである。私が小さいころ住んでいた家の、道路をはさんだ反対側は幼稚園だった。このふたつは、いずれもお寺が経営するもので、寺が隣接されていた。しかし、私の家の向かいの幼稚園は、いつかはわからないが、既に廃園になっていて、現在はグーグルでチェックしたところ、駐車場だ。お寺はりっぱな建物になっている。少子化は、どちらも同じだから、幼稚園を運営する意思の問題なのだろうか。
団塊の世代が通った「学校」は、かなりが潰れたり、廃校になっているから、戦後まもなくから続いている学校は、特に私立では、強い教育的信念があるのだろう。