平城宮復元

 関ヶ原の岐阜県から奈良に移動。昨日、平城宮復元工事が行われている地域を見学した。周知のように、奈良県平城京は、約70年間日本の都だったが、その後廃れてしまい、ほとんどが水田地帯になっていたらしい。しかし、何人かの平城京復元の主張が少しずつ実り始めて、現在は国家事業として、復元作業が行われている。もちろん、建物などは一切残っていないので、復元といっても、新たにこうだっただろうという形で、復元しているわけだ。できているのは朱雀門と大極殿のふたつだ。平城宮の南門である朱雀門の南には、資料館やレストランなど,いくつかの建物が立っており、復元の際には、周囲の観光地になるのだろう。そのほかの土地は飯場になっているか、荒れ地になっている。

 
                 朱雀門
 
 
            大極殿
 
 
                   復元中の第二大極殿
 
 奈良時代については、学校でもあまり詳しく教えないので、イメージがわきにくい人が多い。何となく華やかな時代だったというのが、大方の理解だろう。万葉集や古事記、日本書紀などが書かれ、東大寺が作られた。唐からは鑑真が来日して、唐招提寺を建立した。
 実は、江戸時代以前では、最も国際化が進んでいた時代である。平安時代以降になると、外国との交流は極めて限定的になって、活発な外国との交流は行われなくなった。しかし、奈良時代は、遣唐使を何度か送っており、唐で学んできた人材(高向玄理等)が、政治や文化の面で活躍していた。しかし、平安時代以降になると、そうした人材は空海と最澄くらいで、他に思いつかないほどだ。また、中国や朝鮮からやってきた人が、政府のなかで活躍もしていた。平安時代以降になると、外国からやってきた人が、政治の世界で大きな役割を果たすことは、ほとんどなくなった。そういう点で考えると、明治時代以降も、外国人が政府の要人になった例はほとんどないから、日本史のなかで、最も国際化した政治・社会だったといえるかも知れない。国際化の負の結果として、いずれも政府高官だった藤原不比等の4人の息子が、天然痘で死んでしまったが、これも国際化の影響で、新型コロナが世界的に大流行した現代では、なるほどと頷く人が多いに違いない。
 
 奈良時代は、学校で習う限り、東大寺などがつくられ、護国仏教が盛んだった時代、つまり、なんとなく穏やかな時代だったような印象をもつが、実際には、天災が頻繁に起こり、疫病がはやり、そして、政府に対する反乱が多数起きた時代であり、奈良時代を代表する聖武天皇は、都を4度も移動したような、不安定な時代だった。藤原冬嗣、長屋王、橘奈良麻呂、藤原仲麻呂等、短期間に政治的動乱があり、道鏡問題等、政治的には問題山積の時代だったのである。
 
 もうひとつの奈良時代の特徴として、女帝(元明・元正、孝謙)が多かった時代である。歴代8人の女性天皇のうち、3人が奈良時代の約70年間のうち約30年在位していた。しかも、その最後の孝謙天皇は称徳天皇として重祚している。それに対して男性天皇は聖武、淳仁、光仁の3人で人数的には同じである。そして、元正天皇の父は草壁皇子であって、天皇ではない。
 つまり、日本の天皇が万世一系で、男系男子で繋がってきたのであり、女性天皇は適当な男性に候補者がいなかったときのショートリリーフであるという「男系論者」の説に疑問を投げかけるたくさんの要素がある時代だ。母は天皇だったが、父は天皇ではない女性天皇がいたこと、そして、奈良時代を終わらせた桓武天皇は、権力闘争の結果生まれたのだから、万世一系とはなにか、という疑問もださせる。
 天皇の歴史をみると、奈良時代までは、天皇が実質的な政治的権力と権威をもっていたことがわかる。天皇が、単なる象徴的な意味しかもたなくなったのは、平安時代以降である。摂関政治をみれば、幼少の天皇はお飾りであり、実権は、別の政治的権力者が振るった。しかし、奈良時代までは、天皇は単なる象徴ではなかったので、だからこそ、天皇としてふさわしい人物であることが求められたのである。適当な人物がいないとか、幼少のときのショートリリーフというのは、やはり不十分な理解であり、持統天皇や元明天皇は、他の皇子たちよりも天皇にふさわしいからこそ、選出されたのであって、権威を周囲に感じさせることができなければ、天皇にはならなかっただろう。
 平安時代になって、天皇が実権を失い、象徴であり、別の権力者に権力の保障を形式的に行う存在になったことによって、天皇システムが変化し、今日までそのシステムが継続している。しかし、民主主義の社会になって、そもそも天皇とは何かという、根本的な問題に直面している現在、まずは、天皇にふさわしい人物とはどのような存在なのかを議論する必要がある。そして、その前提として、ふさわしい人物でなければ、天皇というシステムの維持は、民主主義にとってマイナス以外の何物でもなくなることを確認することも必要だ。
 そうしたことを考える上で、奈良時代は、とても意味のある時代だった。
 
 些細なことだが、いくつか展示をみていて考えたことがある。
 奈良時代には、少なくとも平城宮においては、役人たちは椅子と机を使って仕事をしていた。その様子を描いたイラストがいくつもあった。ウィキペディアでは、平安時代に例外的に椅子が使われていたと書かれているが、奈良時代に机と椅子が使われていたことは、かなりいわれているので、逆に、なぜ平安時代、そして、鎌倉時代以降、ほとんど使われなくなったのか、非常に興味があるところだ。闘いのときに、武将が椅子のような床几を使ったようだが、一般的ではなかった。
 奈良時代の交通手段はどうだったのだろう。
 平安時代に牛車が使われていたのに、その後、車が使用されることはほとんどなかったのは、日本史の不思議だと思っているのだが。
 もうひとつ。
 奈良時代の貴族と庶民の食事の模型が展示されていたが、格差が歴然としているのは、驚くことではないが、貴族の食事が、現在和風旅館で、それなりの夕食としてだされる食事と、大差ないことにびっくりした。平城宮跡がもっと完成していったときには、奈良時代の貴族の食事というのが、管内のレストランのメニューにだされると、より実感が湧くと思う。
 
 奈良時代と関係ないが、車で偶然安倍元首相が銃撃された場所を通ってきた。全体として狭い広場であるだけではなく、演説をした囲みも非常に狭く、あんなところで演説していたのかと、不思議な思いだった。
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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