著作権を考える 子どもの発表会の著作権(最高裁判決)

 音楽教室の発表会での著作権料に関する最高裁判決がでた。
 
 私自身は、JASRACにあまり好感を抱いていないので、そうした意見の偏りがあるかも知れないことは、予めお断りしておきたい。 
 この訴訟で争われていたのは、音楽教室の発表会で演奏したときに、著作権料が発生するかどうかである。JASRACは、講師であろうと生徒であろうと、発表会で演奏すれば、著作権料を支払う必要があるという立場であり、講師、生徒側は、学習のためなのだから著作権料は発生しないという立場である。一審、二審で判断が異なり、また最高裁でも異なったという、珍しい事例である。それだけ著作権とは、複雑な権利であり、また、社会的効果も、ひとつの考えで割り切ることができないといえる。

 
 まずこの件に関する著作権法の条文を確認しておこう。
第三十八条 公表された著作物は、営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金を受けない場合には、公に上演し、演奏し、上映し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。
 
 この条文を素直に読めば、まず生徒に著作権料の支払い義務が発生するとはいえないことは明らかだ。生徒からもとろうというJASRACの主張は、腹が立つほどだ。もちろん、発表会の入場料が設定されている場合は別だが、私が知る限り、音楽教室の発表会に入場料をとる例は知らない。特別な教室(例えばプロになる意思をもつ者だけが生徒になっているような)なら入場料をとるかも知れないが。
 問題は、講師についてだろう。講師は、当然発表会に際して、生徒から報酬を受けるはずである。しかし、その報酬は、何に対する報酬か。私の子どもの発表会で、講師が演奏した例はあまりない。生徒のみが演奏していた。この場合は問題ではないだろう。その場合の報酬は、純粋に指導に対するものだから。
 講師が演奏するのは、おそらく子どもたちの演奏では満足できないだろうからというので、サービスとして演奏するか、あるいは、こんな風に普段指導していますという、情報提供の意味かも知れない。しかし、常識的には、発表で講師が演奏したとしても、その演奏に対する報酬として、指導料をとるのではないと、私には思われる。講師が演奏したとしても、その分の入場料をとるわけではなく、入場料はとらないのだから、普段の指導の過程で、講師が演奏してみせることの延長といえるだろう。
 もし、講師の演奏に対して、報酬が支払われるからという「理由」で、著作権料をとるとしたら、それは誰が払うのか。常識的に、発表にかかる費用は、すべて生徒側が負担するものだ。会場、録音等の設備、そしてピアノの使用料、講師への謝礼等を、生徒が分担して支払い、発表が実現することになる。ここに、講師が演奏することによって、著作権料が発生するとしたら、おそらく生徒がその分を支払うことになるだろう。もし、どうしても支払う必要があるのならば、その演奏によって収入をえた人が支払うべきものだろうが、それでも、その原資は生徒の負担である。結局は、講師が負担したとしても、本当にだしているのは生徒ということだ。つまり、生徒が講師の支払うべき著作権料を支払うというのは、どう考えても公正とはいえないと、私は思うのだが、どうだろうか。
 
 原則的に著作権というものについて、議論になっていることに関して考えてみたい。
 著作権は、文化的な創作活動を支える意味で、不可欠な権利である。これは、まず第一の原則だ。19世紀末以前までの作曲家は、ほとんどが貧乏だった。作曲だけで生活できていた偉大な作曲家は、ほとんどいない。例外は名声を得たオペラの作曲家だけである。オペラはヨーロッパの日常生活のなかの娯楽として根付いていたし、また、オペラのスコアは複雑なものだったので、作曲家に多額の報酬を払うことが、オペラ上演に不可欠だった。だから、成功したオペラの作曲は裕福な環境を得た。しかし、他の作曲家は、演奏や、パトロンへの奉仕、弟子への教授料で生活していたのである。それが、次第に著作権が確立して、創作活動に対して、成功に応じた収入が保障されるようなった。バーンスタインは、後年の演奏会のギャラは、すべてアムネスティに寄付していたというが、それは、「ウェストサイド・ストーリー」の著作権料で、一生贅沢な暮らしが保障されているからだと、語っていた。
 しかし、現在の様な過度の著作権料の保障は、芸術活動の制約となることも多々ある。著作権の継続期間が、死後50年だったとき、リヒャルト・シュトラウスのオペラは、なかなか上演されなかった。それが、著作権の切れる20世紀末になると、目立って上演回数が増大した。リヒャルト・シュトラウスは作曲家の著作権の確立に非常に尽力した人であり、その意思を継いだ管理団体が厳格に運用したので、かなり高額の著作権料が要求されたために、上演を躊躇する歌劇場が少なくなかったのである。しかし、著作権が切れると、支払う必要がなくなるので、上演コストがかなり下がり、演奏回数が増えた。そして、そのことによって、リヒャルト・シュトラウスの再評価が進んだのである。この場合、著作権が、著作者自身の評価を高める機会を奪っていたことになる。
 
 これは、著作者の死後の保証期間が長すぎることによって生じる弊害である。死後70年も、権利相続者の経済的支援をする必要があるとは、とうてい思えないのである。子孫を潤しても、芸術そのものの普及を妨げるのであれば、創作者にとっていいこととはいえないではないか。
 したがって、著作権の死後継続期間を、もっとずっと短縮することが、芸術の保護にとって好ましいといえる。ミッキーマウス法などといわれるような馬鹿げた、長期間の継続はやめて、せいぜい20年程度にすべきではないだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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