公文書の保存と公開 神戸事件の事例から考える

 神戸の中学生による連続殺傷事件の司法記録が、すべて廃棄されていたことが、話題となっている。
 通常の文書は20年保存となっているが、最高裁が重要な件については、永久保存することを義務づけている。誰がみても、神戸の事件は重要案件だと思うが、どういう訳かすべての資料が廃棄されたという。日本の行政担当者の文書保存意識の低さを、実感させられる。公文書は、自分たちに都合が悪くても、きちんと保存すべきものである。もちろん、非公開期間があってもよい。しかし、保存はきちんとして、一定期間が過ぎたら公開すべきものである。そもそも通常の裁判は公開であるから、資料も公開されている。もっとも、判決以外の資料は、特定の場所に保存されているので、見るためには、その場所に行かねばならない制約はある。しかし、裁判が公開であるということは、資料についても公開されるべきものであって、現在は資料もほとんどはデジタル化されてやりとりされるから、ネットで見ることができるようにすべきなのである。

 
 こうした一般の訴訟に対して、家裁扱いの審議は、原則的に非公開だから、資料が公開されることもない。それは仕方がない側面もある。だが、資料の保存はなされるべきで、ある程度の時期がすぎたら、やはり、公開されるべきものだ。特に研究者が、その事件についての事実に基づいた検証をするために、必要なことである。もちろん、一般のひとたちに非公開といいたいわけではない。しかし、ある事件について、何十年も経過したあとで、原資料にあたる人は、広い意味での研究者だろう。そこに強い関心をもった一般人を含めても構わない。とにかく、最高裁の指示があるにもかかわらず廃棄してしまったことは、きちんと責任が追求されるべきである。
 
 大部前だが、NHKが、ソ連によるアフガニスタン侵攻のドキュメントを作成したことがある。それをみて、大学の授業でも参考にしたのだが、一番驚いたのは、ソ連政府が、政府、党の主要な人物に関する記録を、ほとんどすべて保存してあることだった。例えば、ブレジネフが誰かと電話で会談したときの「内容」などだ。それがちゃんと文字に起こされた記録が残っていて、NHKはそうした資料をチェックして番組を作成したわけだ。ソ連は、アフガニスタンに侵攻して、それが失敗し、結局ソ連そのものの崩壊にいたってしまったわけだが、アフガニスタンへの介入については、ずいぶんと内部で議論されており、必ずしも、ソ連の大国主義的な介入だったわけではないことが、そうした資料をみるとわかるのである。こうした資料を、政府にとって有利とか、不利とか勝手に行政当局が判断して、残す資料と廃棄する資料を分別しているとしたら、後世に事実が伝わらないし、また、そのとき、有利と判断したことが、後世、マイナスに評価されること、そしてその逆だってある。したがって、残すべき公文書というのは、網羅的に、質の判断をせずに、すべてを残すことが大事なのである。廃棄したり、改竄するということは、当然知られてはこまることがあるからであろうし、また、後世そのように判断される。アナログ時代には、記録を廃棄すれば、事実を葬りさることができるというのも、事実として間違いではなかったかも知れないが、デジタル時代においては、公的な記録を全面的に「なし」にすることは不可能である。
 たとえば、ある政治家が発言して、それが世間の大々的な非難を受けることがある。それが国会での発言であったとすると、「発言を訂正」したり、撤回したりして、正式の議事録に変更がなされる。しかし、リアルタイムで報道されたものについては、削除したり、訂正することは不可能である。そして、その政治家がいかに、非難される発言をして、それを議事録で訂正したかを、変遷すべてが、国民の媒体に記録され、記憶されることになるのである。
 以前は公開されることがなかった審議会の議事録なども、最近では多くが会議での議論がほぼそのまま公開されている。残念ながら、発言者の固有名詞が隠されている場合もあるが、内容はわかる。だから、ある政策がどのような議論を経て、具体化されていくのかを、国民を正確に知ることができるようになっている。こうしたことが、大きな流れとしては、政治の透明性を高め、民主主義の度合いを高めていくことができるはずである。
 
 さて、今回の神戸の事件の資料について、もう少し考える必要がある。というのは、刑事事件としての特異性と、さらにこれが少年の事件であるという特異性を考慮しなければならないからである。
 刑事事件の詳細については、報道の自由の側面と、被害者加害者のプライバシー、そして、加害者の更生の問題、更に報道そのものが、犯罪の誘発要因になる危険性等を考慮しなければならない。だが、訴訟の公開原則から、資料の公開もまた原則的に必要であるといえる。だからは、前述したように、判決だけではなく、裁判に提出された資料そのものも公開することが望ましい。デジタルで記録されているから、公開は技術的には容易である。
 それに対して、被害者のプライバシーは厳格に守る必要がある。また、加害者の処罰は、国家が刑をもって行うことであり、メディア等で公表され、社会的な非難にさらすことによって罰することは、本来あってはならないことである。犯罪者も、ほとんどは社会に復帰するのであり、社会にとっては、刑を終えた犯罪者が、社会で通常の生活が可能になることが好ましい。そうした観点から、私は、犯罪の報道については、原則「匿名主義」が正しいと考えている。事件の内容と固有名詞は区分して考えるべきである。社会の安全にとって、とのような犯罪が起こったか、それは何故なのか、等々を分析することは重要であるが、それがどの地域の誰によってなされたから、事件を理解する上で必要ではない。むしろ、公開することによる罰という色彩が濃くなる。そして、当然固有名詞を含んだ興味本位の情報が、似たような犯罪を誘発してきたことは、否定できないのである。
 これらは、少年の犯罪にとっては、より重要性が増すことになる。
 したがって、刑事訴訟の記録は、原則、固有名詞(人名・地域名)を伏せて記録し、その代わり、原則的に公開すべきである。公開されれば、廃棄、削除などもありえないのは、デジタル情報の特質である。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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