団塊の世代

 NHKの番組でキャスターが、「団塊の世代」を読み間違えたことが、ずいぶんと話題になっている。
 コメントがなかなか面白いものがあった。ただ、どうも気になる文が少なからずある。それは団塊の世代がずっと優雅な生活を送ってきて、いまや国家予算に多大な負担(年金や社会保障費)を、現役世代に強いるというような理解だ。
 
 今や若い世代は、団塊の世代という言葉を、そもそも知らないという意見も散見されたが、おそらく、来年は団塊の世代という言葉が、メディアにたくさんでてくるだろう。それは、再来年をもって、団塊の世代全員が後期高齢者になるからである。高齢者の様々な問題、年金、医療費、認知症、車の運転等々が、どんどん論議されることになる。

 私自身が団塊の世代の真ん中に属しており、ずっとメディアの話題として、自分たちが報道されるのを見てきた。しかし、当人としては、そうした報道や議論が、かなり間違っていると思っている。「団塊の世代」という言葉は、堺屋太一氏による命名であるといわれており、氏の小説は、1976年から連載が始まったが、もっている文庫は1980年の出版である。しかし、私たちの年齢層が、メディアの大きな話題になってきたのは、当然それ以前からであって、そのときには、当然団塊の世代などといういわれ方はしてこなかった。ばらばらの名称だった気がするが、一番違和感を感じるのは、「世代」という言い方だ。「世代」という以上、15年程度の幅がなければならない。アメリカのX,Y,Z世代などという呼び方があるが、すべて15年程度を含んでいる。つまり、世代というのは、子どもが親になって、次の子どもを生む期間ということだから、昔の感覚では15年から20年くらいだったのだろう。そういう意味では、現代ではもっと長くとるべきだが、社会の変化が激しいので、同世代の感覚は、早く展開していくということで、15年程度を目安としているのかも知れない。
 ところが、団塊の世代というときには、1947年から49年に生まれたひとたちを指している。世代というには、短すぎるのである。だから、実際には、「団塊の世代」なるものは存在しないともいえる。世代の特質という意味での「特質」をもってはいないのである。では、何故、常にメディアで取り上げられてきたのか。それはその3年間の人口が極めて突出して多いために、瞬間風速による激変を社会に対して及ぼしてきたからだ。しかし、その変化は長くは続かなかったのもはっきりしている。そして、その変化を及ぼした理由は、ただただ人数が多かったということによる。だから、影響といっても、量的なことがほとんどなのである。
 
 子どものころはどうだったか。それは、学校に入ると、すし詰め教室となった点である。今では40人学級ではとても指導ができないといわれるが、私が小学生だったときには、50名を超えるクラスは、めずらしくなかった。中学に進学する前、校舎が足りなくて、新築していたためでもあるが、二部授業をしていた。幸い私が入学したときに校舎が完成したので、二部授業は解消されたが、ひとつ上のひとたちは二部授業だった。
 ちなみに、ヤフコメなどをみると、団塊の世代は高度成長期に育ったので、生まれたときからテレビのある恵まれた子どもの時代を送ったなどと書かれていたが、それはまったく事実ではない。私は、東京の世田谷で育ったが、小学生のころテレビがある家庭は、それほど多くなく、テレビの野球中継は、街頭やうどん屋さんでみたものだ。ピアノがある家庭は、クラスに一人二人程度だった。習い事をしている子どもは、めったにいなかったのである。野球は草野球であり、リトルリーグなどはずっとあとのことだ。
 はっきりと、「量」による社会変化が起きたのは、高校受験である。このとき、受験戦争という言葉が生まれ、東京でも進学希望者より、定員がずっと少なかったので、希望しても入学できない生徒が少なくなかったのである。このときの受験地獄を解消するために、全国で高校入試の改革が行われ、9科目から5科目、内申書重視の方向がだされ、東京では悪名たかい学校群制度が実施された。それくらい、団塊の世代の受験競争は激しかった。
 
 大学では、紛争世代とか全共闘世代といわれたが、全員が闘争していたわけではない。ストライキ中は、大学で授業がないから、自由な生活を楽しんでいた学生も確実にいた。まして、大学にいかなかったひとたちには、関係のない事件だったろう。ただ、では何故、あのような激しい紛争状態が起きたのか。確かに、当時の大学の世代は現役で進学すれば、1年生から3年生であった。つまり、大学生として紛争の中核だった。そして、前後の大学生と比較しても、批判的な精神が強く、議論を多くする傾向があったと思う。それは、小学校時代の経験があったのかも知れない。
 つまり、日本の戦後教育は、当初かなり徹底した民主化が行われたが、50年代から、いわゆる逆コースがおき、民主主義的な要素は、どんどん廃止されていった。勤務評定問題で荒れ、1958年に学習指導要領の法的拘束力化が実行される。その後、全国学力テストが強行されて、社会問題化し、結局停止に追い込まれる。こういう義務教育を巻き込む大転換と、大きな紛争を小学生と中学生として経験したわけである。私が中学時代生徒会の役員をやっていたときに、ふたりの顧問が、日教組派と教育委員会派であったために、生徒たちの前でしょっちゅういいあいをしていた。当時は訳がわからずという感じでみていたが、そうした政治的対立であったことを後年知った。
 つまり、義務教育期間中に政府の教育政策が大きく転換し、現場ではかなりの混乱を引き起こしていたというなかで、大学に進学したときに、世界的な青年の反乱に遭遇したということだ。
 
 その後も、就職、結婚などの時期に話題になり、団塊ジュニアなる世代を生んだことになっているが、高度成長期でもあったために、就職難はそれほど大きな問題にならなかったような気がする。そういう点が恵まれた世代といわれるのかも知れない。私自身は、大学のポストを得るために、かなり苦労したのだが。そして、ふたたび世代的に話題になったのは、退職時期が近づいたときだ。かなりの大人数が退職したことは、かなりの影響を与えた。私が関係していた教員については、これを前後して、大量採用が続き、特に小学校教師の需要が高まり、そして、人気がでた。すべての業種でそうだったわけではないだろうが、教育界では10年ほど続いたことは間違いない。しかし、その後ブラック職場であることが話題となって、教師志望者は激減している。
 そして、いよいよ後期高齢者になり、社会保障負担の増大が現実化してきたわけである。ただし、私自身は、前からいろいろと提起してきたつもりだ。年金も70歳になるまで受け取っていないし、ほとんど医療機関の利用もない、これまでは健康を維持している。社会保障問題を解決するためには、定年延長か廃止がベストであると、ずっと主張してきたし、いまでもそう思っている。ただし、高齢であるための高収入を保障する必要はない。基本的には、できる仕事で継続できる仕組みが望ましい。高齢者は、子育て負担から解放されているから、特に高給は必要ない。そうして、年金なしで生活できるひとたちが増えれば、若者の負担は減るし、そもそも労働力不足の時代なのだから、高齢者が仕事を維持しても、無意味に重要ポストを占拠しない限り、若者の職場を奪うこともない。そうした仕事や給与体系の改変をすれば、団塊の世代の社会保障問題を回避できるのである。それは、若い現役世代の仕事であろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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