今日は演奏会だった

 今日は、私の所属する松戸シティフィルハーモニーの演奏会だった。創立40周年記念ということで、私は半分在籍していたことになる。当初記念の演奏会なので、ひとつのプログラムで全員出演することができるということで、マーラーの6番予定だったのだが、コロナの影響で、どれだけ練習ができるかという不安があったために、曲が変更になり、ほとんど誰も知らないハンス・ロットの交響曲一番を中心とする演目になった。他にブラームスの悲劇的序曲と、ワーグナーのタンホイザー序曲だ。前にも一度ここらは書いたが、実際に演奏したということで、再度報告したい。
 当初負担を軽くするということだったが、結果はまったく逆で、負担がずっと重くなった。タンホイザー序曲は、とくに弦楽器にとっては、難行苦行のような曲だ。不思議なことに、そういう部分は、指揮者はあまり練習しない。練習してもできるようになると思っていないからなのか、できなくても仕方ないと思っているのか、メロディー部分ではないので、目をつぶることにしたのか。「何故練習しないのか」などと指揮者に質問して、取り出し練習などさせられたらたまらないと思うから、練習しないことに、団員はほっとしている。もちろん、練習するようには言われるし、弾けないのは悔しいので、私もかなり練習はしたのだが。

 
 ハンス・ロットという作曲家を、オーケストラの団員すらほとんど知らなかった。表にでる前に若くして死んでしまい、100年後にこの曲を中心にいくつか取り上げられるようになったという、非常に珍しい事例だ。音楽は、まったく無名になった人が、後世突然表に出てくることは、まずないといってよい。文学なら、無名でもこつこつと作品と書きためていて、後世に発見されることはあっても、音楽は、実際に演奏されないと、作曲家のイメージ通りに書かれているかわからない。そして、才能ある作曲家であれば、かならず誰かと一緒に演奏して、それが多くの人に広まることになる。素晴らしい音楽を書いたのに、誰にも聴かせることなく、忘れられてしまうということは、普通ないのだ。演奏されたのに忘れられていくのは、それだけ魅力がない曲だからだ。
 もっとも、有名な作曲家の場合には、発表されない作品が後世に出てくることはある。シューベルトのザ・グレイトが有名な例だ。これは、シューマンがシューベルトの住んでいた家を訪れ、そこで残された楽譜をチェックしたところ、この名曲があったというわけだ。シューベルトという偉大な作曲家だから、シューマンは出向いたわけだ。
 
 しかし、ハンス・ロットの場合には、この極めて例外的な現象が起きた。何故この曲の楽譜が、取り上げられるようになったのかは、 私はまだ詳しくは把握していない。だが、とにかくオリジナルの楽譜が保存されていたということだ。やはりマーラーという理解者がいたからだろうか。
 
 さて、演奏会だ。天候に恵まれたよかった。不思議なことに、私がオーケストラの演奏会のときには、ほとんど雨が降ることはない。聴衆はまあまあの人数だった
 演奏は、曲目順に問題がでてきていた。
 ブラームスの「悲劇的序曲」は、一番密な練習をしたことと、今日の演目のなかでは、技術的にはやさしいこともあって、指揮者の意図は比較的徹底していたと思う。練習では、中間部の静かなところでのトロンボーンが、散々注意されていたのだが、今日は静かな雰囲気をだしていた。
 タンホイザー序曲も、特に破綻もなく、苦痛そのもののバイオリンも、完奏したようだ。
 ところが、問題はやはり、ハンス・ロットで起きた。まず、観客にとって、初めて聴く曲であり、かつ長い。途中で帰ってしまった人もいたという。楽章を進むごとに、長くなり、また、音楽が派手になっていく。3楽章までは演奏もそれなりに決まっていた。しかし、問題の4楽章は、演奏している私からみても、(もちろん自分の演奏も含めて)破綻していたとしかいいようがない。
 私は、指揮者に、もっとオーケストラの力量に見合う指揮をしてほしいと思った。ここは難しいところだ。あくまでも音楽が求めるものを、アマチュアに対しても求める指揮者と、アマチュアにできないことを要求して、演奏を破綻させるよりは、しっかりと演奏できる範囲を模索して、きちっとした演奏を実現しようとする指揮者がいる。プロなら、最善の効果を意図するのが当然としても、アマチュアには、やはり技術的限界がある。
 私は後者を求めている。今日の演奏は、とにかく困難な部分で、快速調で飛ばしたので、やはりついていけない奏者が続出して、ばらばらの演奏になってしまった。もともと混乱しているような曲であり、ほとんどの聴衆にとって初めて聴く曲なので、演奏がばらばらになっていることに気付かなかったかも知れない。
 
 アマチュアに可能な範囲を模索するというのは、楽曲を歪めるということではない。テンポ選定などは、かなり幅がある。そもそも会場の響きによって、テンポは変わるといったのはフルトヴェングラーだ。だから、プロなら、もっとも速い速度をとるとしても、アマチュアには難しければ、音楽的に許容される範囲で少しおそいテンポをとることは、作曲家への冒瀆ではない。むしろ、できないテンポをとって破綻させるよりは、ずっといいのではないだろうか。
 ロットの第4楽章は、とにかく長い。しかも、聴いてすぐに惹きつけられる音楽ではない。これをゆったりとしたテンポをとると、聴衆は退屈してしまうという危惧を、指揮者はもったのかも知れない。それは理解できるが、やはり、私が思うのは、しっかりした演奏だからこそ、聴衆を感動させることができるはずだ。
 演奏とは何か、考えさせる演奏会だった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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