文科省が「ギフテッド」支援へ?

 朝日新聞8月7日に「飛び抜けた能力、なじめない学校 文科省「ギフテッド」の子を支援へ」という記事が掲載されている。
 しかし、どうも趣旨のよくわからない記事だった。
 「突出した才能をもつ子どもが円滑な学校生活を送れるよう、支援する。」というのだ。周囲となじめず困難を抱える子どものために、学習プログラムを展開するNPOに情報を提唱し、教員の研修を充実させるということらしい。
 突出した能力をもって、授業になじめない子どもを、なじめるようにするというのは、ギフテッド対策として、いかにも一面的なのではないかと思われるし、授業になじめない子どもは、ギフテッドでない子どももたくさんいる。授業になじめない子どもは、誰であれ、なじめるように工夫するのは、教師にとって重要な仕事だ。
 この記事には、「文科省のアンケートから」、特異な才能の例として、「8歳で量子力学や相対性理論を理解」する子どもがあげられ、困難な経験の例として「授業が面白くないと我慢の限界となり、不登校に」とある。このふたつが「組み合わされて」いるわけではないが、本当にこうした例があるのかという問題と、あったらどうするのかを少し考えてみよう。

 「理解」というを、正確にという意味でいうなら、量子力学と相対性理論を、8歳で理解する子どもがいるとは、私には思えない。だが、仮定としているとしよう。ならば、その子にとって、授業が面白くないのは、当然であって、普通の授業など退屈で退屈で仕方ないはずである。8歳で量子力学や相対性理論をきちんと理解しているのだから、その分野だけではなく、自然科学、数学だけではなく、国語力もかなりあるはずだから、要するに、義務教育で学ぶべき共通教養は、習得していると考えられる。小学校に適応させることが大事とは、到底いえない。授業になじませることなど、不可能だし、そんなことをしたらその子を潰してしまうことになる。むしろ、別の教育形態を可能にするほうが、本人にも、また社会にとっても有効だろう。
 このように、広い意味での学校で学ぶ内容に、ずば抜けた能力を早くから習熟している子どもは、全面的あるいは部分的に他の教育形態で学ぶことができるほうがよい。そうした未知をつくるのが、ギフテッド対策であろう。義務教育の強制などナンセンスである。
 
 しかし、ここで問題にしているのは、もう少し違うギフテッドのようだ。つまり「能力がありながら、認知・発達に困難がある子ども」らしい。サヴァン症候群のような事例なのだろうか。それならば、それほど単純なことではない。単になじませるなどということではないだろう。
 強度の自閉症でありながら、ある点で極めて高度な能力をもっているような場合と、他は普通あるいは平均より下程度だが、ある面で極めて高度な能力をもっている場合など、多様な事例があると思うが、それは、当事者や保護者の選択になるのではないだろうか。
 以前、典型的なサヴァン症候群のドキュメントをみたことがある。その人は、何かをみれば、ほんの短い時間でカメラに写したように、その情景を絵に描くことができる。そこで、30分ヘリコプターに乗ってローマの町並みを見たあと、その風景を描いてもらうと、ひとつひとつの建物の窓なども正確に描いたのである。他方、彼は、他の劣った能力を向上させるべく、訓練をしていた。そして、多くの能力が普通になるにしたがって、カメラで写したように描く能力が弱くなっていったというのである。
 サヴァン症候群は、ある特定分野のインプットとアウトプットの量が格段に多く、他の分野は乏しいときにでる現象だと思う。したがって、意図的に、他の領域のインプットとアウトプットをするように訓練していけば、自ずとバランスがとれてくると同時に、特定の高度な能力も次第に薄れていくということではないか。もちろん、その場合でも、カメラ的模写の訓練を合間に欠かさなければ、その能力が落ちることはないはずだ。
 したがって、どのような能力の保持を望むのか、平均的なものなのか、あるいは、他は低くても、飛び抜けて高度な能力を維持したいと考えるのか。それは価値選択の領域であるように思われる。それに応じて、訓練を与えるような条件が、社会に整うことが好ましい。
 そうした教育の柔軟性と多様性を、社会と行政が認めていくことが、今後は重要になっていく。ギフテッドはそのひとつに過ぎない。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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