今日(8月7日)のサンデーモーニングで、統一教会と政治家の関係が特集された。青木理氏の発言がスポーツ報知で紹介され、多数の賛否両論のコメントがついている。サンデーモーニングは、見ていないが、非常に重要な問題なので、考えてみたい。
青木氏の発言の要点を整理すると、
・安倍元首相の銃撃事件が「パンドラの箱を開けた」と捉えるのは絶対にマズイ。暴力の連鎖を呼びかねないからだ。
・その逆で、70年代、80年代から霊感商法とか合同結婚式など、社会的な問題を起こしてきた反社会性の高い教団に対して、もっと早い段階で警察や行政が実態解明に乗り出していれば、被害はある程度抑えられたが、それをしなかった。
・政治の意図とか不作為によって教団が温存されたので、蓄積したものが爆発して事件が起きたと捉えるべきだ。
・これを機会に政界と統一教会の関係を整理して、統一教会と日本社会が決別していかないと、同じ事件か起きる。
・岸田氏や自民党は、もっと真剣に考えるべきだ。
以上が、スポーツ報知の記事の青木氏主張を整理したものだ。これは、発言なので、厳密に論理的一貫性を問うても仕方ないかも知れないが、はっきりいって、発言が矛盾している。
「政治の意図や不作為によって教団が温存されたので、蓄積したものが爆発して事件が起きた」ということは、事件が火山爆発のように自然現象として起きたということなのか。事件を起こしたのは、現時点では山上ということになっているから、その前提で書くが、自然ではなく、山上という人間である。しかも、統一教会の不当さを社会に知らしめるために、意図的に山上は安倍元首相をターゲットにした。だから、「パンドラの箱を開ける」ことこそ、山上の意図だったと考えるのが妥当だ。
社会的事件は、絶対に自然現象として発生するのではなく、ある特定の人間が、彼なりの意図をもって引き起こすのだ。「蓄積したものが爆発した」って、何をいいたいのか。事実を隠すための表現とすれば、不誠実なコメントだ。
「パンドラの箱を開けた」と表現すると、かならず暴力の連鎖をもたらすというのも、いいかげんではないか。「パンドラの箱を開けた」のは事実だが、しかし、それは許されないことだから、彼は厳しく罰せられるべきだ。しかし、彼が統一教会の不正を社会に認識させたことも確かなのだし、そのことは、政治家やメディアが怠ってきたことだから、確実に受け継いで、今後も明らかにしていくべきだ、という表現が何故できないのか。実際、山上に同情的な発言はネットに多数あるが、だからといって、許されるべきだといっている者はほとんどいない。
青木氏は、客観的な認識と、そこから得られる判断、評価、そして未来にどうつなげるか、というレベルの違いを区別せずに発言している。
歴史をみれば、暴力や軍隊による行動で社会的な革命が起きた事例はいくらでもある。むしろ、完全な言論の力で革命が起きたことのほうが、圧倒的に少ない。名誉革命は、血が流れなかったが、オレンジ公ウィリアム3世は、軍隊を率いてイギリスに上陸したのである。明治維新も、薩長の軍隊によってなし遂げられたのだし、戦後改革もアメリカ占領軍がなければ成立しなかった。明治維新は、軍事力による革命といったら、軍事クーデターを連鎖させるから、そう捉えてはならず、長年の徳川幕府の不作為によって爆発したのだ、などといえば、逆に信用をなくすだけだろう。過去の革命が軍隊によって成立したとしても、これからは、民主主義的な議会を通じて行うのだ、という認識が確立することが大事なのだ。
統一教会問題が、これまで社会の注目を集めなかったのは、青木氏のいうように、政治の意図や不作為があったことは事実だ。しかし、不作為は政治だけではなく、メディアも同様だった。訴え続けていたのは、一部野党と統一教会による被害者・弁護団くらいだ。しかし、メディアも政治も、被害者・弁護団の訴えを無視してきた。現在、すべてではないが、多くのメディアが取り上げているのは、ある日突然そうなったわけではない。あくまでも、山上の犯行があったからだ。こうしたことは、歴史的にみれば、何度もあった。幕府を追い詰めるひとつのステップとして、薩摩藩兵が江戸で狼藉を働いたのもそうだ。私の身近では、大学に入学したとき、機動隊が大学構内に入り、それに怒った学生が一切に無期限ストライキに突入したのだが、機動隊を導入させるために、一部の学生たちが、暴力行為を働いたのだった。こうした行為は肯定できないが、しかし、それが事態を動かしたことは、否定しようがないのだ。