護憲野党の保守化を考える

 参議院選挙の結果がでて、予想通り自民党の圧勝となり、改憲勢力が3分の2を確保したとされる。これも予想通り、立憲民主党と共産党の後退となった。ただし、令和新撰組の躍進を見れば、別の可能性もあるということか。
 毎日新聞に、選挙結果を受けてと思われるが、「若者は保守化していない 求めているのは社会を変えること」という大空幸星氏の文章が掲載された。
 全体の趣旨は掴みがたいところがあるが、最後に書かれた次の文章は、確かにそうかも知れないと思わせるところがある。
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 「若者が保守化している」といわれる。しかし米大統領選での「サンダース現象」などを見ても分かるとおり、若者は常に変化を求めており、根源的にはリベラルだ。
 一方で、変化を求める若者は、少しでも社会を変えることができるならば、何もしない野党よりは与党のほうがましだと考える。だからこそ野党にはもっと幅を持ってもらいたい。

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 野党が何もしないかどうかは、議論の余地があるが、基本的に、自民党のほうが革新姿勢が強く、野党(らしい野党のこと。維新の会などは、ここでは除外して考える。)が保守的であることは、ずいぶん昔から指摘され、私もそう感じている。私の世代では、自民党が保守で、野党が革新であることは、どちらの支持者であっても、共通の認識だった。実際に、その通りであったかどうかは、また別の問題だが、少なくとも、野党が、福祉を中心とする政策で、現状打破を目指し、そして革新自治体などを生んで、そうした実行力があり、現状を変えていこうとしていた姿勢は明確だった。高度成長の結果として生まれた負の現象であった「公害」についても、是正させる運動は、野党中心だったと思う。
 しかし、そのうち、公害規制の技術などが進展し、福祉もそれなりの充実がなされるようになって、自民党と野党の最大の争点は、改憲か護憲がにシフトしていった。実際に、改憲されてはいないが、集団的自衛権を容認した法改正など、実質的な改憲が進展し、自民党のほうが、野党よりも、様々な面で変革の立場に立っていることは、否定しようがない現実になっている。
 
 民主主義という点でも、野党は、見劣りをしてしまう面がある。
 昨年、自民党と立憲民主党は、ともに代表を選挙で選出した。メディアの取り上げ方もあるが、自民党のほうが、候補者間で、自由闊達な議論がなされ、しかも、保守からリベラルまで、広い理念をもった候補者が出揃った。もちろん、影ではお金が動いていたかも知れないが、とにかく、自由な議論の結果、支持をえた岸田氏が当選したという印象を与えた。
 他方立憲民主党も同じようなスタイルだったことは確かだが、候補者間の政策や理念の相違がほとんどなく、目立ったのは共産党との共闘をどうするか、という違い程度だった。そして、何故泉氏が当選したのか、あまり明確な理由もわからず、決まった暁には、候補者全員が重要ポストに就くという、なれあいを感じても仕方のない結末となった。河野氏が閑職に追いやられた自民党とは対照的だ。もちろん、どちらがいいかは別として、自民党では、全力をあげて闘っているのだ、という印象を与えたことは間違いがない。そして、それが活力を生んでいる。
 共産党は、明らかに選挙で敗北したのに、「政策は正しかった」という理由で、指導部が責任をとる必要がないという、従来からの対応をした。しかし、理念的な政策は正しいかも知れないが、国民への浸透とか、宣伝等々のことまで含めた「選挙政策」が、不十分、あるいは間違いがあったから、敗北したのではないか。多くの国民はそう感じているだろう。
 
 私の専門分野で感じることは、野党支持者のIT活用の消極性だ。ITが社会を変え、その活用をしなければ、ほとんどの分野で取り残されていくと思うのだが、教育学者は、Society5.0の批判ばかりやっている人も少なくない。ITは真の教育を破壊するかのような観念に、とりつかれているのではないかと思われるほどだ。だから、やはり、現状をかえない姿勢が目立つ。もちろん、別の面で優れた実績をもたらしていることは間違いない。しかし、社会がITを軸に変革しているときに、それに抵抗するかのような姿勢は、やはり、「保守的」と感じさせてしまう。
 
 野党が、かつてのように、社会の矛盾を解決するような変革を、具体的に提示し、説得力があるような政策を国民に伝えていくようになる必要がある。9条は守る必要があるが、変える必要がある憲法の条項は、たくさんあるのではないか。
 
 しかし、若者が本当に変革を望んでいるかといえば、私にはそれほど楽観的には思われなかった。
 戦前の「革新」とは、国家統制というニュアンスが強かった。現在の若者が「革新」願っているといっても、そうした意味に近いような気がするのである。
 私の狭い若者との接点は、大学教育における学生とであるが、しかも、主に教師になろうとしている学生であるから、一般化はできない。そして、私のゼミに入ってくる学生は、かならずしも、同じ傾向ではなかったこともいっておきたい。教職をめざす学生の大きな特質として、国家が決めたことが重要という意識があった。そして、年々それが強くなってきた印象がある。例えば、前に書いたことがあるが、教科書を教師たちが集団的に、自分たちで決めるのがいいのか、あるいは、現在の制度のように、教育委員会で選定委員会を作って、そこで決めたものを、市全体で使うほうがいいかと質問すると、多数は、後者がいいという。そして、その理由は、上が決めてくれたほうが、いい教科書が選ばれるからだというのだ。こうした傾向は、他のことにも及んでいる。上が決めてくれれば、それがいい判断だというのは、社会を変えていきたい、という意識とは異なる。むしろ現状維持的思惟様式といえる。
 どうしてそういう思惟様式が強くなってきたのかは、別稿で考えたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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