指揮者の晩年6 ブルーノ・ワルター

 ブルーノ・ワルターは、私が最も好きな指揮者である。私が子どものころは、戦前のSPレコードを聴いていた。もちろん、既にLPは出ていたと思うが、父の病気もあって貧しかったせいか、新しいものは買うことができなかった。小学校も後半になって、はじめてLP用の再生装置を購入して、それから、いろいろとレコードを揃えていったが、それまでは、SPだったので、いまでも古いレコードの音質は気にならない。
 そうしたSPのなかでも、ワルターのものが多かった。モーツァルトのジュピター、アイネクライネ、ベートーヴェンの田園、シューベルトの未完成など。トスカニーニやフルトヴェングラーのものもあったが、やはり、ワルターに惹かれた。
 SPのなかで、いまでもよく覚えているのは、メンゲルベルクのチャイコフスキー「悲愴」の極めて強烈な個性的演奏だ。もちろん、初めて聴いて、聴き込んだものだから、それが「普通」だと思っていたのだが、その後LPで普通の演奏を聴くようになって、その異様さに改めて気付いたものだ。

 さて、LPを購入するようになった時期には、ワルターが既にコロンビア交響楽団とのステレオ録音に取り組んでい時期で、ベートーヴェンやブラームスの全集、モーツァルトなどがどんどん発売されていた。したがって、こうした作曲家のものは、ほとんどワルターで揃えたと思う。1962年にワルターが亡くなったときのニュースでは、告別式で、ワルターの大好きな田園交響曲が流れた、といっていたと記憶している。CDになって、ワルターのボックスは何度かでており、その度に購入していたので、同じ曲の同じ録音のCDが何種類もあるが、マスタリングの時期や発売会社によって、音がけっこう違うことにも驚いている。いまでも、一番聴く指揮者は、ワルターである。
 
 ワルターは、若いころから認められた指揮者だったから、人生のほとんどは、恵まれたものだったが、何度か挫折や辛い目になっている。
 最初の挫折(といってよいかは迷うところもあるが)は、当初ほぼ決まっていたとされる、ベルリンフィルの常任をフルトヴェングラーに奪われたことだろう。ニキシュの後任になるが、ニキシュによって、ベルリンフィルは、すでにドイツ最高レベルのオーケストラと認められていたから、その後任は、もっとも優れたドイツの指揮者になると思われていた。当時、ワルターこそが、ドイツ指揮界の第一人者と思われていたから、本人もそのつもりだったかも知れないが、おそらく、積極的にポストを狙って活動するような人ではなかったに違いない。まだ若かった(30代半ば)フルトヴェングラーは、優れた指揮者と認められていたが、大家たちを押し退けてしまうほどの実力を認められていたわけではなかった。しかし、かなりの運動をしたらしく、フルトヴェングラーがポストをえてしまったわけだ。もっとも、これは、その後の歴史をみれば、ワルターは、それほど遠くない時期に、ナチスによって追われることになったはずだし、フルトヴェングラーという偉大な指揮者がベルリンフィルを振ることで、生まれたのだから、結果的にはよかったのかも知れない。ワルターとベルリンフィルの関係は、その後も密接で、定期的に指揮をしていた。
 もうひとつは、ミュンヘンの歌劇場の音楽監督だったときに、ユダヤ人であることを理由に、退任を余儀なくされたらしいことだ。そして、その旗振りがクナッパーツブッシュであったといわれている。最近は、クナッパーツブッシュの人気が非常に高いので、この話題に触れられることがほとんどないが、ワルターは、生涯クナッパーツブッシュとは握手をしなかったと言われている。温厚といわれるワルターにとっても、許せなかったのであろう。
 そして、ヒトラーが政権をとると、ドイツにはいられなくなり、ウィーンに活動の中心を移すが、やがてオーストリアもドイツに併合されてしまい、かなり苦しい時期を過ごしている。結局アメリカにわたって、生涯アメリカを活動の中心地とした。ときどき、ヨーロッパで演奏会を開いていたが。
 戦後は、豊かなアメリカで生活し、大指揮者として認められていたから、幸福な晩年を過ごした指揮者といえるだろう。とくに、引退したワルターに対して、コロンビアレコードが、ワルターの録音をステレオで後世に残すという大事業を実施して、専用のオーケストラを組織し、かなりのステレオ録音が残された。このような事業を実行したのは、ワルターへのコロンビア以外には、私は知らない。トスカニーニのためにNBCがオーケストラを組織して、継続的に演奏会を開き、放送したのも、これに近いが、放送のためであり、「歴史に残そう」という理由はなかったのではないだろうか。
 
 ワルターは、この一連の録音を大変気にいっており、一端引退した身でありながら、意欲的にレパートリーをこなしていった。そして、オーケストラにも満足していた。コロンビア交響楽団(という名称だったが、あくまでもワルターの録音のために、その都度契約されたメンバーだった。しかし、非常に優秀なメンバーだったといえる。)は、下手だなどという世評もあるが、私はそう思わないし、ワルター自身が、自分の意図を本当によく理解して表現してくれると、インタビューで語っているのを読んだことがある。それはそうだろう。ワルターの演奏を後世に残す目的のオーケストラに応募したひとたちなのだから、ワルターのために演奏するという意識が強かったはずだし、ワルターの意図を無視するようなことは、決してなかったはずだ。
 指揮者とオーケストラは、完全に共感しあうことは、私はあまりないように思うのである。どこか、解釈の違いでふっきれないようなところが、たいていはある。ワルターも、他のオーケストラの場合には、それが感じられることがある。しかし、ワルターとコロンビア交響楽団には、それがない。本来の設立目的からして、ワルターの意思が徹底しているのは、ごく当然の結果だろう。
 このような仕事をしながら、結局、まだまだ録音する予定の曲があったけれども、人生の最後まで、満足のいく仕事を継続し、後世に残すことができたワルターという指揮者の晩年は、もっとも幸福なものだったのではないだろうか。ただ、もう少し長生きして、ワルター本来のレパートリーであるオペラをいくつか録音しておいてほしかったと思うのは、私だけではないだろう。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です