インターネットの匿名性は必要である

 ウォール・ストリート・ジャーナルに、「インターネット上の匿名性を擁護する」という記事が掲載された。筆者はマイケル・ルカである。
 アメリカでも、匿名性の是非についての議論がさかんなようで、ほぼ日本と同じような論調だろう。私は、1990年代のパソコン通信時代に、匿名性についての議論をかなりたくさんやった。そして、結論として、匿名性は大切であり、短所より長所のほうが大きいということだった。ただし、一定の条件が必要である。当時はパソコン通信で、完全に開放的なシステムではなかったが、インターネットになっても、基本は同じだと考えている。
 匿名性否定派の意見は、名誉毀損・誹謗中傷、詐欺等の犯罪的な発言や情報伝達が可能になる、匿名を禁止すれば、そうしたネガティブな書き込みができなくなる、というものだ。こうしたことが、多く見られることは事実であり、たとえ匿名肯定派であっても、こうした犯罪的書き込みに対する有効な対策をとる必要があると考えている。
 私は、匿名性肯定派なので、その立場からの見解として書く。
 検討すべきことは、ふたつある。
 第一に、実名制にすれば、名誉毀損・誹謗中傷や詐欺がなくなるかということ。
 第二に、匿名にしても、こうしたことを防ぐ有効な手段があるかということ。

 第一については、実名制のほうが、匿名制より、そうした書き込みが圧倒的に少なくなることは、間違いない。facebook などで誹謗発言が滅多に見られないことから、確認することができる。しかし、誹謗発言とか名誉毀損が、どのようなものであるかは、人によって感じ方が異なるから、実名による発言でも、誹謗されたと感じる人がいることは事実だ。自分の書いた文章に、ツイッター上で書かれたリプライを名誉毀損として、提訴したジャーナリストがいたが、私からみると、提訴するようなレベルの誹謗発言のようには思われなかった。本人にはそう感じられたのだろうが。
 youtubeをみていても、名誉毀損と受け取られるような映像は、いくらでもある。ときどき、消されたとか、あるいは、伏せ字めいた表現をする場合があるが、それは、実名だからそうしているのではなく、youtubeの管理側からの削除を避けるためであって、表現自体はなんら変わらない。「秋篠宮」と書くと削除の危険があるらしく、「A宮」などと言うのだが、誰にもその意味はわかるし、内容はまったく変わらない。しかも、発信者が実名で、顔を晒していることも多い。こういう規制は、予めyoutubeとかツイッターなどの経営体が、規準を提示して、抵触すると経営体が判断すると、削除してしまうので、かならずしも、名誉毀損とされるような発言や表現とはいえないものもある。
 まだ、パソコン通信だったころ、ネットニュースという、意見交換もできる場があったが、そこでは、実名だが、かなり激烈な非難の応酬が普通だったそうだ。しかし、訴訟になったことはない。
 また実名であるが故の弊害もある。それは、同姓同名の人に、疑いが向けられるという点だ。ある事件が、容疑者の実名入りで報道され、同姓同名の人がネット上だけではなく、実生活上でも大きな被害を受けたことがあった。インターネットだけではなく、報道の世界でも、実名が弊害となることがあるという実例である。
 では、匿名制の弊害に対する対策はあるのか。現在は、確かに不当なまでに匿名での発言者が守られているといえる。およそ公開された場で、発言したり、何かを公表するときに、他人の権利を侵害してはならないことは、当然なのだから、権利侵害を保護する必要はない。しかし、他方表現の自由も大切にされなければならない。
 現在は、匿名で名誉毀損されたとき、被害者が、発信者の利用しているプロバイダーを特定して、そのプロバイダーに情報開示を要求する。通常断られるので、裁判所に、情報開示要請の訴訟を起こす必要がある。そして、判決で開示命令がでると、プロバイダーは、匿名発言者の個人情報を開示する。こうした手順であるために、かなり面倒であり、費用も時間もかかる。これを簡単にする必要がある。明らかに犯罪的な発言をする者を、秘匿する形で守る必要はない。私が提案するのは、
・プロバイダーと契約するときに、インターネット上で名誉毀損などの発言を行うことがないことを誓約させる。
・被害者からの開示要請があり、その理由となる発言が、名誉毀損あるいは他の犯罪、ないし権利侵害の要素を含んでいると、プロバイダーが考えるときには、被害者側に発言者の個人情報を開示することを了承させる。
 以上を契約時に確認しておくことである。
 もちろん、プロバイダー側が名誉毀損的であると判断しても、その後の訴訟では否定されることはありうる。すると、名誉毀損発言をしたとされた者が、プロバイダーを訴える可能性もある。しかし、その場合でも、プロバイダーは免責されるということを、法律によって決めておくことも必要である。つまり、現在の法的規定を、緩和するわけである。
 これで、被害者を守る点で、かなりの前進があるように思われる。開示訴訟を簡略化する方向にはなっているが、開示訴訟などを不要にするほうがよい。そうすれば、他人の権利侵害をするような発言をした場合には、匿名でも、実際には個人情報を開示されてしまう、ということで、発言に気をつけることが期待される。完全ではないが。
 
 さて、では匿名制には、どのような利点があるのだろうか。マイケル・ルカ氏は、差別を受けることがなくなる、少なくとも大幅に減少するといっている。同じことになるが、私は、個人的な属性を捨象することによって、平等な関係になると考えている。特に、何か議論したり、共同作業をするときに、リアルな場面で、それぞれのもっている地位や職業によって、不要な制約がかかることがある。個人的な躊躇であったり、あるいは専門家としての傲慢な態度だったりが現れて、本質的な作業が阻害されることがある。しかし、そうした個人的な属性を取り除くと、そこで語られる内容だけが、検討の対象となる。これは、議論をする上で非常に重要なことだ。
 私は、パソコン通信をしているときに、ネット上のこうした誹謗中傷的な表現を、どう扱うかについてのその場でのルールをつくることになり、実際に策定したことがある。実はそこでできた原則は、今ネット上のトラブル解決の上で了解されている原則と、ほぼ同じであり、実に先進的な取り組みだったのである。それは、こうした完全に匿名の集団による、非常に真剣な討議で生まれたものだ。
 またそのパソコン通信上の議論では、専門家を名乗る人がときどき現れるのだが、専門家ではないが、しっかり考える力をもった人に、やり込められてしまうことが度々あった。つまり、匿名空間は、真の実力が試される場でもある。だから、立証する力、考察する力、表現する力等の知的な能力が、純粋に個人のレベルで試されるし、また、鍛えられる。
 匿名議論をしているときに紹介した話がある。あるとき、晩年のトルストイが、ひとつの寓話を書いたので、名前を書き忘れた原稿を、出版社に送ったところ、受け取った編集者は、「トルストイの
お粗末な模倣と考えて、しまい込んだ。なかなか連絡がないトルストイが問い合わせると、編集者はあわてて探し出し、トルストイの傑作として雑誌に掲載したというのだ。
 もし、これが本当に無名の新人によって書かれたものであれば、世に出ることはなかっただろう。編集者は、本当のところ、この作品をどう思っていたのだろうか。トルストイもたまには駄作を書くのだ、と内心思っていたのか、読み直して、さすがにトルストイの作品は味わいがあると、再評価したのか。ただ、編集者が、執筆者の名声によって、作品への対応を変えたことは間違いがない。
 匿名での議論は、そうした雑念を追い払い、表現されたものだけを評価の対象としたコミュニケーションが成立するのである。創造的な世界で絶対に必要なことだ。 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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