医療的ケア児の就学と支援の問題

 6月17日の47NEWSに「人工呼吸器を付けた「医療的ケア児」は地元の小学校に正式入学できるのか 「自主的集団登校」続ける相模原市の9歳男児」と題する記事が掲載された。
 9歳の医療ケア児が、入学を認められていない小学校に、毎日自主的に集団登校に加わって、学校の建物の前まで一緒にいくが、建物にはいることはできない。そして、在籍している特別支援学校には登校していないので、未就学になっているという。
 1年生の時は、市内の特別支援学校に就学しながら、週2日小学校に通う「居住地交流制度」が実施され、2年生になったら毎日通うえるようにするための試行だった。しかし、2年生になる前に、人員が補充できないという理由で受け入れが不可能になった。だが、自主的集団登校を続けている。
 
 こういう趣旨の記事だ。そして、記事は、「医療的ケア児支援法」が昨年9月に施行されたこともあって、医療的ケア児や家族を社会全体で支え、その意思を最大限尊重する、という法の趣旨を紹介して、市としても、この子にベストな方法を考えたい、一人も取り残さない教育を考える、としていることを伝えて、「友達と同じ教室で勉強する環境を整えられるか。力量が今、問われている。」と結んでいる。

 しかし、この記事に対して、現時点(4時半)で440件のヤフーニュースのコメントがついているが、最初のほうは、私の見た限り、すべてこの記事に対して批判的であり、この保護者に対しても、共感的とはいえない文章が並んでいる。ヤフコメは、こうした問題に対しては、とてもまじめなコメントが書かれるが、立場は分かれることが多い。だが、最後まで読んでいないが、ほぼ、この保護者の姿勢に疑問を呈しているものがほとんどである。それに驚いた。
・子どもの意思はどうなのか。親のエゴを感じる。
・子どもにとっては、専門的な教師がいる特別支援学校のほうが、よい結果をえられることが多く、将来のためになる。
・小学校は、教師の過重労働がひどく、障害児がいなくても、十分な指導ができない状態なのだから、小学校での就学は、適切な指導をえられない可能性が高い。
 だいたいは、このような主張である。
 
 ところで、この記事を読んで、妙な事態の進展に気付くに違いない。2019年度は、市は受け入れに積極的であったのに、2020年度に向かって、無理だということになっていった。この時期は、医療的ケア児の支援法を制定させる運動が行われ、実現する方向が見えてきた時期である。「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律」は2021年6月に成立し、9月施行となっている。だから、むしろ、この医療的ケア児は、試行を踏まえて、完全実施されてもよかったのに、実際には逆になっている。
 では、成立した法を読んでみよう。全編同じような文章が続くが、学校に関する部分を引用しておこう。
 
(学校の設置者の責務)
第七条 学校(学校教育法第一条に規定する幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校をいう。以下同じ。)の設置者は、基本理念にのっとり、その設置する学校に在籍する医療的ケア児に対し、適切な支援を行う責務を有する。
 
 ここでいう基本理念とは、保護者の意思を最大限尊重して、それぞれの組織で支援するということだ。そして、それを受けて、様々な組織でのこうした「責務」を規定している。
 しかし、日本の法律というのは、前にも書いたことがあるが、責務といっても努力目標であることがほとんどであるし、実行のための保障は、明確にされない。そして、この条文を読むと、「在籍する医療的ケア児に対し」と書かれている。
 こういう条文を前にして、市や学校はどういう対応をとるだろうか。以前は、障害をもった子どもは、就学前の検診の結果をもとに、養護学校への入学を強く勧められた。事実上、それを断って、普通学級にいれることは、極めて困難だった。しかし、裁判などもあり、現在では、保護者の意向を尊重して、かなり重度の障害児でも、受け入れることが多くなっている。文科省がそのように行政指導しているからだ。だが、権限としては、相変わらず不明確であり、最終的な決定権がどこにあるのかは、規定されていない。また、障害児を普通学級に受け入れるに際して、受け入れ側の責務が明確に規定されているわけではない。だから、自治体が必要な人的手当てをする場合や、保護者が随伴して世話する場合など、とりあえず相談の上で、どのようなケアを実行するかは決まっていく。
 しかし、今回の法律は、学校の設置者の支援責務を明確に規定している。すると、受け入れる以上、適切な支援をしなければならない、そのための人員や器具などを整備していかなければならなくなる。それならば、入学を断ってしまおう、という自治体が出てきてもおかしくないのである。実際に、障害児の場合には、普通学級に受け入れる法的「義務」があるわけではないから、予算の関係で人員の配置ができないという理由で、受け入れられないという理由が成立する。特別支援学校という受け入れ先、しかも専門の学校があるから、そちらにいってほしいということができるのである。
 この記事の事例は、この法律の規定があるからという理由ではないが、しかし、法は意識されていただろうし、法の裏側で起きることが、実際に起きたといえるのである。これは、大学や研究所での非常勤講師や任期制研究者を、正規の常勤にするために、5年あるいは10年経過したら正規の常勤にしなければならないという法律を制定したところ、5年、10年の直前に雇用関係を切られる「雇い止め」という慣行が生まれてしまったことと似ている。
 つまり、法で、本当にきちんと決めないから、実際には抜け穴が常態化してしまう。もちろん、法の理念通りに実行するところもあるだろうが、前よりも悪化させてしまう状況を生んでしまうことがあるということだ。
 
 医療的ケア児については、こうした理念的な支援の規定だけでは、真の解決からはほど遠くなってしまう。記事への批判がほとんどであるコメントに、それは象徴される。根本的で、かつ極めて難しい問題が内包されているからだ。
1 医療的ケア児は、昔は生きることができなかった子どもであるが、医療の進歩によって生きることができるようになって現れたといえる。もちろん、もっと医療が進歩すれば、障害をさらに治療できて、健常者とほとんど変わらずに生活できるようになる可能性はあるが、現時点では、まわりの、恒常的な、人による支援なしには生きていくことができない。
 以前は、出産直後に死んでしまうか、あるいは医療的ケア児になる子どもは、その場で死なせてしまうことが一般的であったと言われている。
 しかし、現代の医療は、技術が進んだ結果として、より複雑になっている。様々な程度の障害が残ると考えられる場合が問題であり、医師として実験的に新しい治療を試みたい場合もあるだろうし、重篤な障害が残る場合には、あえて治療しないほうがよいと考える場合もあるだろう。丁寧に両親に説明する場合もあるだろうし、そうでない場合もあるだろうが、医師と両親の意思が反する場合どのように考えるのか。アメリカに比較して、日本ではそうした倫理規定があいまいであるという。https://square.umin.ac.jp/j-ethics/gaiyo_4_6.htm
 丁寧なインフォームド・コンセントにより、双方の意思が一致することが好ましいことは言うでもないが、重篤な障害が残る場合、あえて治療をせずに、死に至らせることは、医師の義務・倫理違反なのだろうか。親の場合はどうなのか。
 また、重篤な障害が残り、医療的ケア児になった場合、社会はどこまで支援義務があるのか。そして、支援形態に対する保護者の意思は、どこまで認められるのか。それは、次の2に関わってくる。
 
2 義務教育の段階で、どの学校で就学するかを決定する、最終的権限はだれにあるのか。また、受け入れ先と保護者の見解が相違したときに、どのような調整手続きをとるのか。
 特別支援学校は、こうした医療的ケア児に対応する専門家と設備が整っている。社会はそうした支援形態を準備しているといえる。
 しかし、普通学級に就学することを、強く希望する保護者が存在する。それは、一般社会で生きていくように、学校でも普通の状況に身を置かせて、一般的な交友関係を育てたいからである。しかし、そこでは、特別に医療的ケアのための人員配置と設備が必要となってくる。法は、受け入れたら、そうした支援を行う責務があると規定したのだが、逆にいえば、受け入れない余地を広げたともいえる。
 やはり、子どもにとって、どういう状態が好ましいのか、当事者(普通学級の校長・教職員、特別支援学校の教職員、医師、保護者)による、丁寧な話し合いの場が、まずは必要であると考えられる。
 まだ検討課題が残っているが、改めて書くことにする。考えれば、考えるほど難しい問題だ。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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