エネルギー問題が深刻になって、ガソリンの高騰は耐えがたいほどになっている。そして、当然のごとく原発再稼働論が強くなっている。ウクライナ侵攻に対応する軍備強化論などと同一である。たしかに化石燃料を減らすことは、原油高だけの要請ではなく、環境問題からくる強い必要性がある。そして、原発については、私は多少、賛成派とも反対派とも異なる見解をもっている。それを書いておきたい。
福島原発の爆発事故があったとき、私は丁度大学の春休みだったから、ほとんど一日中テレビをみて、特に原子力専門家の解説を聞いていた。そして、原子力専門家なるひとたちのいいかげんさについて、本当にびっくりした。あのとき、専門家は全員、メルトダウンなどは絶対に起こしていないし、起こさないような構造になっていると断言していたものだ。しかし、その高名な専門家の大学に、私の娘が院生として通っており、非常に興味深い話を聞いてきたのだ。その高名な専門家が、爆発を起こしても放射能などはたいして問題ではない、安全を脅かすようなものでは、全くないと、テレビで解説したあと、大学に戻ってみると、窓が開放されていたので、烈火のごとく怒って、これでは放射能が入ってくるじゃないか、早く閉めろ、と命じたそうだ。そこにいた研究室のひとたちは、びっくりしたそうだ。先生はテレビで放射能なんか、まったく心配ないと言っていたじゃないかというわけだ。そして、この話はすぐに学内で拡散したという。
しかし、爆発事故初期には、こうしたことがあったが、やがて、専門家の見解も比較的落ち着いてきて、肯定派と否定派の討論なども行われるようになった。そういうなかで、非常に興味深い印象をもったのは、名前はまったく忘れてしまったが、そういう二人の議論だった。二人とも、原子力の専門家である。
肯定派の科学者は、現在の技術をしっかり使えば、原子力発電は安全なんだ、と強調した。実際、女川原発は、福島原発よりも、ずっと震源に近かったにもかかわらず、事故が起きなかった。単純にいえば、女川原発は、ずっと高いところにあり、福島原発は海面からあまり高くないところにあった。だから、津波に襲われる危険性か違っていたのである。安全条件を守り、技術をしっかりすれば、女川原発のように、あれだけの地震に見舞われても大丈夫なのだ、というわけだ。
しかし、反対派の科学者は、しっかり技術を使えばそうかも知れないが、実際の原発というのは、経営的観点から、安全のための技術を端折ることが、しばしば起きるのだ。原発とは、科学技術の粋を集めたものだが、一方で経営のために行われている。だから、利益をあげるために、必要な対応をしない傾向があるのだ。そういうときに、事故が起きる。実際に、起きたではないか、というわけだ。
福島原発については、実はもっと高いところに建設予定だったのだが、海水をくみ上げて冷却水として使用しなければならないために、くみ上げるコストを下げるために、土地を削り、低くしたのである。だから、津波にやられた。さぼったというよりは、将来のコストを下げるために、当初にコストをかけて、わざわざ危険な状態にしてしまったのである。これも一種のコスト意識である。そして、津波の危険性と、そのための事故の可能性については、福島原発については、何度も指摘されていたし、国会で問題にもなった。危険を指摘する議員の説明と質問に対して、そんな危険はない、修繕の必要はないとつっぱねたのは、原発事故後も、原発建設とその輸出に熱心だった安倍首相(第一次内閣)であった。このことは、決して忘れてはならない歴史的事実である。
さて、ふたりの正反対の意見を聞いて、私は、たしかに、本当にすべての技術を駆使して、安全を確保すれば、原発はそれほど危険なものではないとも思うのである。しかし、問題は、反対派の科学者がいったように、そうした技術を、経営的な理由で、十分に使わず、安全を軽視する傾向があることだ。実際の話ではないが、アメリカ映画「チャイナ・シンドローム」は、そうした場面が実際に出てくる。この映画は、公開の少しあとに、スリーマイル島の原発事故が起きたために、話題になったものだが、事故になる危険があると指摘する技術者に、1日止めれば何億ドル損すると思っているだと怒鳴りつける場面があるのだ。
先日の最高裁判決(原発被害に国の責任を求めて訴訟で、原告の要求を知り退けた)は、災害の予見可能性があったとしても、事故の回避可能性はない、という理由を示した。もちろん、これは、事実に反していた。津波の危険性が指摘され、それに対する対応が示されていたのである。そして、その対応を実行していれば、あの福島原発事故はなかった可能性が高いのだ。だから、回避可能性もあったのだから、国の責任は非常に重いのである。
さて、では、どうしたらいいのだろうか。どういうことをすれば、経営者は、コストカットなどではなく、十分の安全配慮をするのだろうか。
それは、電力会社の本社機能を原発の敷地内、あるいは隣接地帯におくことである。複数の原発をもつ電力会社でも、ひとつの本社を最も重要な原発のところにおけば、他の原発でも、同じ対応はするだろう。
本社がそこにあれば、事故が起きたら、会社全体が台無しになるし、また経営者たちも絶大な被害を受けるのだから、考えられる限りの安全対策をするのではないだろうか。そして、住民も安心するだろう。
こういうことを考える人は、他にもいるに違いないが、実行する国はないだろうと思っていたところ、フィンランドは、そうしていると報道されていた。フィンランドには、原発は一基しかないが、そこに本社があるそうだ。そして、そのことが、国民に原発への信頼感をもたせているのだそうだ。
福島の事故後の政府(当時の民主党のみならず、継承した自民党も)も、そして東京電力もあまりに無責任であったし、また、福島原発はなんども細かな事故を起こしていたのだから、単に、高くなった規準を満たしたから再稼働を認めるわけにはいかない。規準よりもっと安全性を絶えず高めるような企業文化と、その実行姿勢が絶対に必要である。しかし、それは、外的に強制するしかない。それが一種の人質である、本社を原発の敷地内におくことである。そうすれば、私も原発の安全性を、かなり信頼できるようになる。