「地球を救え スタートアップが描く未来」 目標・自由・規制2 教育の場合

 規制をどうするか。
 私の専門の教育で考えてみる。教育の世界にも、規制はたくさんある。まず、私立学校を設立するためには、知事(高校まで)や文部科学大臣(大学)の認可を受けなければならない。高校までの一条校の教育には、学習指導要領という「規制」が存在する。
 しかし、国の認可がなくても、学校を設立することができる国もある。アメリカが典型である。
 学校設立に規準や認可が必要であることと、必要ないことと、どちらが教育的に望ましいのだろうか。単純化していえば、多様な教育を認め、信念に基づいて教育活動が行える、つまり規制がないほうが、全体としては、活発な教育活動が行われ、子どもたちは、自分の気にいった教育を受けることができるから、十分な発達を促すことにつながりやすいといえる。しかし、教育の実態は入ってみなければ、十分にはわからないものだから、いざ入学してみたら、酷い教育条件だったということがありうる。規制の緩い専門学校で、留学生への教育をきちんと行わないために、留学生たちがどんどん行方不明になってしまった事例があった。当然その専門学校に対しては、厳しい監督と規制が行われたことだろう。

 また、この中間的な形態として、オランダでは、国家や行政機関は認可に関与しないが、学校の基本理念に基づいた協会が、加盟を承認する形での認可もある。どの協会にも属さないままの学校設立は可能だが、国家からの財政補助を受けることはできない。
 それぞれ一長一短があることは、はっきりしているが、人々の観察力を向上させつつ、自由な設立が可能になるシステムが、好ましいといえる。
 
 学習内容についても、日本は先進国で最も規制が強いといえる。日本の学習指導要領を参考にして、ナショナルカリキュラムを策定するようになった先進国は多いが、それに基づいて教科書検定をしているところは、極めて少ない。検定教科書を使うことがメリットであるとしたら、国家としての知識を効率よく、統一的に国民に習得させることだろう。しかし、私は、それがメリットであるとは思わないし、先進国全般として、そんなことをしていたら、知識基盤社会で成功できるとも思えないのである。現在求められているのは、既存の知識を覚えることではなく、それは当然として、そうした既存の知識なり、あり方に疑問をもって、批判できること、そしてそのなかから新しいものを創造できることである。そのためには、国家が検定した教科書を使わなければならない授業などは、批判力を育てることなどできないし、ますます、子どもたちを知的鋳型に押し込めることになる。だから、教育内容に関しては、明らかに、規制を取り払って、自由な教材の使用を認めることが必要である。
 しかし、そういう事態に対しては、教師の側から、あるいは保護者からも異論がでる可能性がある。「それでは何を教えたらよいかわからない」「教科書以外のことを学習させるなんて、不安だ」等々。実際に学生たちに、多少異なることだが、教師が自由に発行されているなかから、教科書を選択できるのがよいか、現在のように、教育委員会レベルで統一的に決めるほうがよいか、と意見を聞くと、後者がよいという学生が多かった。理由は、自分で選ぶ自信がないし、教育委員会が決めてくれたほうが安心できるというのだ。私はかなりがっかりしたものだ。あまり学生の意見を否定することもできないので、「自分で教科書を選ぶことができないようでは、教師として力不足だと思いますよ。」程度でお茶を濁していたが。こうした傾向は、行政が作り出したものでもあると同時に、小学校では、テストを教師自身か作成しなくなって久しいが、そうした教育内容を自前することがなくなってしまったことが、教師の授業力の向上を阻害しているし、また、受け身姿勢を助長しているといえる。
 
 日本の教科書は、非常に簡略化され、写真やイラストがたくさんある、内容が薄いものになっている。だから、教科書だけで学習しても、知的能力は身につかないといってよい。だから、副教材や教師手製の資料を加えて学習するわけだが、ITを使えば、もっと豊富な教材が活用できる。もちろん、そうしている教師も多いし、一人一台のパソコンの時代になっているので、それが求められているともいえる。しかし、そうなった場合、学習指導要領で、教育内容に規制を設けることは、桎梏にしかならないのである。従って、学習指導要領の内容を、もっと大綱的なものにし、教科書検定をやめ、採用も学校採用に戻す。科目によっては、特定の教科書などは決めずに、複数の教科書を学校所蔵にして、比較検討しながら使うことも可能にするとよい。社会はその方が、より柔軟な学習が可能になる。
 おそらく、長い目でみれば、そうした体制のほうが教師自身の実力もつくし、肯定的に受け取るように思われるが、保護者の場合には、情報公開や説明などを通じて、理解をえるようにする必要がある。
 しかし、これについては、苦い経験がある。私の子どもの担任が、仮説実験授業をとりいれる人だった。子どもたちは非常に喜んでいたのだが、保護者から不安の声がでて、保護者会で、その教師がつるし上げられることがあった。教科書を使わない授業はけしからん、という感覚の保護者たちだった。私は、直後に人生初の留学(海外研修)でオランダに出発する予定で、その準備に追われていて、そのことにまったく気付かなかったために、とてもその担任に申し訳ないことをした。知っていれば、保護者たちを十分に説得できたのだが。
 仮説実験授業は、非常に素晴らしい理科教育方法である。確実に子どもたちは積極的になり、理科への興味関心を向上させるが、学習指導要領とは異なる原則で編成されているために、行政や校長などから、圧力がかかる。保護者が援護することが必要なのだが、保護者自身が否定する状況がある、というのが、残念ながら、日本の現状でもある。
 次は、ドキュメントの分野で考えてみよう。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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