読書ノート『プーチンの野望』佐藤優 (潮出版)

 発行日(6月6日)に購入し、その日に読んだという珍しい本になった。関係ないが、私の誕生日でもあった。
 説明するまでもなく、佐藤優氏は、日本でもっとも優れたロシア通の一人であり、かつては職業的なロシア担当の外交官だった。そして、その仕事は、交渉を担当するというよりは、情報を集め、分析する役割だったので、やはり、他の人の書いた文章とは違う側面にまで切り込んでいる。
 構成は、章ごとに
1 仮面のプーチン
2 プーチン独裁者への系譜
3 20年独裁政権抗争とユーラシア主義
4 北方領土問題
5 クリミア併合
6 ウクライナ侵攻
終章 平和への道程
となっている。
 
 この本のなかで、もっとも読ませるのは、やはり、北方領土の部分だ。

 小渕首相が、領土交渉をかなり進展させ、森首相が引き継いだわけだが、佐藤氏によれば、かなり実現可能性があったようだ。ただ、私は、基本的にそうは思っていないし、安倍首相の下で、いくらプーチンとの信頼関係を築いたとしても(もちろん、それは安倍氏の勝手な思い込みだったと思うが)、日本の主張が通ることはなかったと思う。
 北方領土問題は、米英が戦後処理に関して、日本とソ連が「紛争のない状態」にさせないために蒔いた種だから、米ソ、米ロが対立している限り、交渉で返還されることなどないと考えておく必要があるのだ。そのことは、佐藤氏の著作には、北方領土解決が進まない、肝心のことが書かれていないことでもわかる。
 佐藤氏は、交渉が最も進んだ時期の、重要な交渉の支え手であったから、関係者の表情の機微なども明確に表現している。そして、いかにも、もう少しで、うまくいったはずであるかのように書くのだが、結局、交渉の中心であった鈴木宗男氏と佐藤氏が失脚してしまう。しかし、どの勢力が、どのような理由で、最も進んでいた交渉を止め、鈴木宗男氏や佐藤氏を刑事責任まで負わせるようなところにもっていったのかは、決して書かないのだ。このことは書けないと、佐藤氏は別のところで書いているから、余程差し障りがあるのだろう。
 だが、常識的に考えれば、それがどのような勢力であるかは、自明のことだと思われる。
 
 ウクライナ侵攻には、前史があり、主に2013年のヤヌコビッチの方針転換と、政権転覆からの継続的なロシアとウクライナの戦闘状態が、今日まで継続しているといえる。
 当初EUとの経済協定を結ぶ政策を進めていたにもかかわらず、突然それを反故にして、ロシアとの経済協力を進める転換を図ったことが、いわゆるマイダン革命となり、ヤヌコビッチはロシアに逃亡することになる。日本の大手メディアはこれを無視して、いきなりクリミヤ半島の奪取から、現在に至る状況を説明するのだが、さすがに佐藤氏は、ここからの騒動として説明している。しかし、何故ヤヌコビッチが、EUからロシアに方針転換したのかが、説明されていないので、もやもやとしたものが残る。私が以前読んだものでは、EUにいってしまってはこまるので、プーチンがEUよりも、有利な条件を示したので、ヤヌコビッチはロシア側に乗り換えたのだと書いてあった。もともとヤヌコビッチは親ロ派だったのだから、ロシアの経済取引の条件がよければ、乗り換えることはそれほど不自然ではない。国民に十分説明しなかったのだろうか。それとも、条件が多少よくても、親EU派は、EUの側にいきたかったのか。突然掌返しをして、ウクライナ国民を裏切った、だから、ウクライナ危機の原因は、ひとえにヤヌコビッチにあると書かれても、具体的な経過がまったくわからない。*1
 その後クリミヤ半島のロシア編入が続くのだが、一応住民投票が行われたが、それはロシア兵の監視下で実施されたものだった。しかし、佐藤氏は、ロシア兵の監視などなくても、住民投票をやれば、ロシア帰属に賛成が集まることは確実だったので、ロシア兵の監視はなかったほうがよかったとしている。もしそうであったら、ロシアへの経済制裁も行われなかったのだろうか。
 その後の進展として、ウクライナがNATO加盟への模索を始めるが、プーチンがそれを絶対に許すことができなかったのは、単に喉元にナイフをつきつけられるようなことだけではなく、ウクライナの軍備はロシア製だったから、ロシアの軍事機密がNATOに漏れてしまうことを危惧したという。
 それならば、ウクライナ侵攻によって、NATOの事実上の軍事援助を受けている現在の状況は、プーチンが自ら作り出し、そのことによって、ロシアの軍事機密は、完全にNATOに伝達されているに違いない。しかも、その弱点をついて、ウクライナ軍によって、効果的な攻撃を許してしまっている。正式加盟ではないにせよ、軍事機密という意味でいえば、ウクライナは完全にNATO陣営になってしまった。
 佐藤氏は、NATO加盟は、クーデタを起こしても絶対に阻止するだろう、というのだが、むしろ、そういう事実上のNATO陣営に追いやったことを、どう捉えているのだろうか。
 
 現在の緊急出版のわりには、「ウクライナ侵攻」についての部分は短く、あまり掘りさげられておらず、主張されているのは、
・ウクライナ侵攻は、プーチン自身の決断であり、ウクライナをいくつかの小国家に分断して、時間をかけてロシアに併合していくことだ。
・ゼレンスキーが、ミンスク合意の実行を拒んだのは、親ロシア派武装勢力の実行支配を認めてしまうことになり、また、NATOに加盟できなくなるからだ。
・東部の問題を解決できていないゼレンスキーの支持率が落ちたので、ゼレンスキーはナショナリズムに訴えるようになり、ドローン攻撃をして、ロシアを刺激した。
・そもそもロシアとウクライナは家族システムが異なり、ロシア人が多数住んでいるウクライナの地域もあり、単一のウクライナというのは、歴史的に存在したことがない。
・NATOによる東方拡大も、ウクライナ侵攻の要因になっている。
・ナチスに協力したステパン・バンデラを評価する歴史認識が、ロシアによる「ウクライナはナチス」という根拠になっている。ナチスの軍隊に加わったウクライナ人は30万人いた。
・プーチンは勝ってはならないというショルツ発言は、事態を悪化させた。
・経済制裁で戦争は終わらない。(制裁で崩壊した国家は存在しない。)ロシアは、国際的に孤立していない。
 佐藤氏の主張を整理すると以上のようになる。
 そして、もちろん佐藤氏は、ロシアを非難しているが、リアルにみれば、アメリカが参戦して、ロシアを敗北させるか、ウクライナが領土の割譲を認めるか、このふたつの可能性しかないと断ずる。
 アメリカは、参戦する意志がないことを、何度も公表しているから、ウクライナが勝利することはない、と佐藤氏はみていることになる。 
 佐藤氏の基本的ウクライナ情勢の見方は、国際法を無視して侵攻したロシア・プーチンに最大の責任があると見るのは当然として、ウクライナにも、アメリカにも責任があるという見解だ。それは、私も妥当だと思う。特にアメリカの責任は大きい。プーチンがウクライナに侵攻しても、アメリカが軍隊を送ることはない、と断言したことは、プーチンを励ましたのと同じだと、当時思ったし、いまでも思っている。それはずっと続いており、ゼレンスキーが長距離の兵器を送ってほしいというのに対して、距離を80キロに制限し、また数も少なくして送るという決定をした。その根拠は、ロシア領内を攻撃できないようにするためだ。プーチンにとっては、なんとありがたいことだろう。ロシアはウクライナを焦土にするような砲撃をしているのに、ウクライナには、その対抗措置をとらせないというのだから、ロシアは攻撃されないわけだ。しかし、最低限、ロシア国内の兵站基地を攻撃できなければ、ウクライナにとっては、まともにロシアと闘うことはできない。ロシアは、長距離ミサイルを自由に撃って、キーウすら被害にあっている。
 湾岸戦争のときも、実はアメリカがフセインに、クウェート侵攻を容認した、少なくともフセインはそう解釈して、実行したと言われている。つまり、アメリカは、フセインのクウェート侵攻を誘導し、アメリカ兵器の消費を促進したのだということが、当時から語られている。現在、アメリカはウクライナ戦争の最大の受益者であり、軍需産業は好景気の熱気に包まれているだろう。
 佐藤氏の複眼的見方には、多いに賛同する。
 
 プーチンの人物像の紹介も興味深かった。
 プーチンは決して個人的感情を表さないという。そして、発言することは、実際に実行を決めていることだ。情報を集めて、吟味するが、その過程で、なんのための情報かとか、どのように考えているなどということは、決して、関係者にも明かさないのだという。しかし、その発言にはだいたい隠されたメッセージが込められており、それを正確に読み取ることが肝要だという。それを自分は得意だったという、かなり自慢げな感じの部分だが、確かに、それはそうなのだろう。
 ただ、オリバー・ストーンにも感じることだが、ストーンや佐藤氏が接していた当時のプーチンと、現在のプーチンは、かなり変化しているのではないかと思うのである。ふたりの描くプーチン像は、綿密に下調べをして、熟慮した上で自分のなかで方針を決定し、そして、それをサインとして相手に送る。そして、信頼した人物を裏切ることはない、というのだ。
 しかし、現在プーチンが押し進めている戦争に関しては、プーチン自身は、嘘偽りを語ってはいないとしても、まわりの人間に嘘をつくことを強制している。ラブロフの発言の嘘は、無残な程である。だから、ロシアとしては、国際社会をだまし続けており、それはプーチンの決定から出ている。
 
 もうひとつ、カトリック、ウクライナ正教会、ロシア正教会、イスラム教、さらにその原理主義等の関係が、ロシアとウクライナにどのように影響してきたかの解説は、非常に勉強になった。
 
*1 関根和弘氏によると、ヤヌコビッチが最終的にEUとの協定に否定的になったのは、汚職の嫌疑で刑務所にはいっていた元大統領のティモシェンコの釈放が、協定締結の条件になっていたことだった。とにかく、ウクライナの政治は汚職にまみれているというのは、よく言われることで、ゼレンスキーもかなりの資産を欧米に隠し持っていることが明るみにだされて、支持率が急降下した。ヤヌコビッチも、かなり公費の横領をしていたことが暴露されているが、そうした政治介入的なことを嫌ったことで、プーチンに助けを求めたところ、プーチンがヤヌコビッチに応える返答をしたということだろう。「ウクライナ国境にロシア軍10万人、プーチン氏は本気だ クリミア併合の取材記者が解説」2022.1.16

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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