中山道旅行記補充1

 昨年10月に、旧中山道を車で行こうという旅行をして、ここで経過を報告したのだが、その前に起こった私の腰痛のために、最初の宿泊地をキャンセルして、一日待ってから高速を使って諏訪まで直行したのだった。だから、高崎で国道17号から18号に分岐するのだが、18号分は、その時には走っていない。しかし、18号の大部分は、以前に何度か走っているので、その欠損部分を補うというより、宿泊して見学しながら地域巡りをする部分を、リベンジをしようということで、最初の宿泊地の予定だった安中巡りを計画した。
 
5月31日 高崎
高崎城跡
 5月31日に家を出発、高速でまず高崎に向かった。もし城址公園があれば、まずはそこには行くことにしているので、高崎城跡を見ようということになった。ただ、残念なことに、高崎城は、明治にほぼ壊されてしまって、ごく一部しか残っていない。高崎城は、徳川家康が江戸に領地替えになり、四天王の一人井伊直政によって築城され、代々重要譜代大名が領主だった重要な藩であり、城であるのに、ほとんど残っていないことはとても残念だ。跡地は市役所を始めとして、様々な施設に活用されてはいるし、堀の一部なども残っている。

 市街地の何かを見に行くときに、必ず問題になるのは、適当な駐車場があるかどうかということだ。高崎城址には無料駐車場があるという、インターネット情報ででかけて、Pの印があったので、そこに向かうと、市役所の地下駐車場で、案内のおじさんが、「有料だよ、だけど、展望台に言ってくれば、無料になる」というので、チケットをもらって地下駐車場に車をとめ、展望台にいくことにした。
 市役所は、跡地に建設された重要な建築物だが、これが非常に大きくて立派なのだ。高崎市の人口は37万人で、私が以前住んでいた松戸市は50万人だが、松戸市役所よりは、高崎市役所ははるかに規模が大きく、りっぱだと感じた。21階建てで、最上階には展望台がある。現在はコロナワクチンの集団接種場になっているので、かなり制限されているが、展望台が一部利用できるので、高崎市内を展望した。
 そして、市役所の受け付けで、駐車場チケットに印鑑を押してもらい、そのあと、一部だけ残っている高崎城跡に向かった。
 
 
残っている建物はこの乾櫓だけなのが残念だ。何人か高齢の方がのんびりと、下にあるベンチに腰掛けていたが、城に関心をもって見に来ているのは、我々だけだった。
 
 
 
 
群馬交響楽団のホール
 私が初めてチェロを習ったときの先生が、群馬交響楽団の奏者だった。高崎から松戸まできてくれて、本当にご苦労さまという気持ちだったが、さすがに、その内に大変になって交代したので、私のほうも先生について習うのをやめてしまった。高崎市役所の展望台から、見下ろす形で群馬交響楽団の専用ホールがある。手前に写っている五角形の白い建物が群馬交響楽団のホールである。こうしたホールをもっているのは、非常に恵まれた環境だ。最近でこそ、専用のホールをもっているか、あるいは契約しているオーケストラも多くなってきたが、以前は、違う練習会場を探して放浪していたオーケストラが大部分だったのだ。入口に少し入ってみたが、かなり古くなっているようだから、専用ホールをもったのも、先駆けの感じかも知れない。しかし、オーケストラは、お金がかかる組織なので、地方都市を基盤にしているところは、運営が大変だろうと思う。
 定期演奏会の今後のプログラムをみたが、やはり、比較的標準的な編成の有名曲が多く、珍しい大曲は見当たらず、秋のベートーヴェン荘厳ミサ曲が、大規模曲だった。
 そして、私の先生だった人は、まだ現役であることがわかり、そろそろ定年ではないかと思うので、その前に一度聴きにいこうと話している。地方のプロのオーケストラの草分け的存在だから、ずっと発展していってほしいと思いを新たにした。
 
 
少林寺達磨寺
 市役所近辺を出発して、少林寺達磨寺にいった。日本三大だるま市のひとつである「高崎だるま市」が行われる寺である。かなりの高低差のある広い敷地に、いくつかの雰囲気の違う建物が散在している。
 
霊符堂(本堂)
 
北辰鎮宅霊符尊と達磨大師を祀っている本堂であり、達磨寺の名称にふさわしく、たくさんのだるまが積んであるのが目についた。明治44年に再建されたということで、神社の雰囲気をもった寺なのだそうだ。グーグルで寺と神社の本当の画像を見比べてみたが、実は、どれも名前をまったく伏せてみれば、神社か寺かわからないようなもので、神仏習合は、同居しているというだけではなく、建築物も融合しているのだと感じた。決して達磨寺の特徴ではないようだ。
 池には多数の鯉がいた。
 
 
観音堂
 
 現在は観音堂となっているが、当初は無尽法経蔵という一切経を収める経蔵だったが、その後、北辰鎮宅霊符尊を祀る霊符堂となり、明治末に、十一面観世音菩薩を祀る観音堂
となったという。この達磨寺の最古の建物ということだが、建物の目的が変化するというのは、私のような無神論者には、あまり理解できないところだ。
 
大講堂
 
 
 
 達磨法師は、伝説によれば、禅を組んでいて、あのような姿になってしまったということになっているが、要は厳しい禅の修行を求めているということだろう。それにふさわしく修行場が、この大講堂である。
 
洗心亭
 この達磨寺には、この寺そのものとは関係ないが、極めて有名な建物として、ブルーノ・タウトが2年間生活した洗心亭という小さな建物がある。
 
 
 これは群馬県教育委員会による説明だが、ナチスから逃れたタウトが、日本にやってきて、なかなか、本来の建築家として受け入れられなかったが、この地で過ごした時期が、彼にとっては、幸福だったようだ。しかし、結局、トルコから、建築家としての招請を受けて、イスタンブールに活躍の場を見いだした。タウトのために尽力した日本人もけっこういたようだが、結局、お雇い外国人を日本人に置き換えが済んだ時期だったから、外国人のそうした専門家を受け入れる雰囲気がなくなっていたのだろうか。
 タウトは桂離宮の発見者と言われることが多いが、これについては、異論もあるようだ。そして、タウトには誤解もあったということを読んだこともある。桂離宮をわびさびの建築物として評価したというのだが、実は桂離宮は建築当時は、かなり華麗なものだったという説もあり、歴史的建築物の評価はなかなか難しいものだと思う。
 
 
 これか、タウトが2年間過ごした洗心亭であり、タウトが設計したのかと思ったが、実はそうではなく、東大教授だった佐藤寛治の別荘で、空いていたためにタウトに提供されたものだそうだ。
 
 
 この碑は、「私は日本文化を愛する」という意味のドイツ語が彫られているが、先述したように、タウトの日本文化理解については、議論があるところだ。もちろん、日本人自身が、日本文化について多様な見解をもっているし、そもそも日本文化ということで、何をイメージするかも、人によって異なる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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