昨日、「いつから人間になるのか」というテーマを別に考察すると書いたので、早速考えてみたい。
もちろん、この問いの前に、そもそも人間とは何かという重大なテーマがあるわけだが、少なくとも、私には、ひとつの答はだすことができない。というより、なんらかの専門領域をもっている者にとっては、その領域ごとに、人間の定義が異なるように思われる。そして、領域による定義が定まれば、おのずと、いつから人間なのかを規定できる。そこで、どうしても専門外に触れることがないが、その点から整理してみよう。
人間の定義は、多くが哲学分野でなされる。代表的なものとして、山岡政紀氏は、以下のような例をあげている。
人間の定義, 出典とその著者
Homo sapiens, 英知人 スウェーデンの生物学者リンネ『自然の体系』1735
Homo phaenomenon, 現象人
Homo noumenon, 本体人 ドイツの哲学者カント『人倫の形而上学』1797
Homo faber, 工作人 フランスの哲学者ベルクソン『創造的進化』1907
Homo ludens, 遊戯人 オランダの歴史家ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』1938
Homo patiens, 苦悩人 オーストリアの精神科医フランクル『苦悩する人間』1950
これらは、すべて、大人としての存在、人間としての特質を考えているのであって、当然、英知をもっていない人は、人間ではないというようなことではない。まして、子どもは、当然英知をもっていない段階だから、人間ではなく、殺害しても殺「人」ではない、などというとにはならない。
こうした「人」の定義として典型的な領域は、法律学である。法律上の「人」とは、法的行為をなしうるものであり、法律について理解している者である。といっても、実際に理解しているかどうかではなく、法律は公布されるから、当然知っていなければならないものであり、その上で、法的能力をもつ「年齢」が規定される。日本の法律では、14歳未満は法的無能であることになっており、犯罪を実行する「法的能力」はないから、罰せられることはなく、また、14歳未満の者に、法的行為をしても、無効である。ローン契約などはできない。
このような大人を前提とした「人間定義」は、中絶は許されるがいつからか、という問題にはまったく役にたたないといえる。
私の専門領域である「教育学」では、教育や学習が可能であることが、人間であることの条件となることは明らかだから、教育・学習が可能でなるときということになる。教育や学習のためには、当然感覚器官が機能しなければならない。諸説あるようだが、聴覚が機能しだすのは、妊娠25週から30週の諸説がある。聴覚は母体の出す音を聞きとっているといわれるし、また、外界の大きな音も届くかも知れない。それに対して、視覚は、機能可能だとしても、胎内では外の世界からの刺激や情報を受け取ることは、ほぼできないわけだから、学習が可能であるのは、早めに考えて、聴覚を規準に25週くらいからとしよう。そうすると、もっとも潜在的な可能性を考えた場合、妊娠25週から人間であるといえる。
しかし、教育や学習は、あくまでも意識的な行為となることが、教育の目標だから、誕生してしばらくの間は、つまり、寝返りなどの身体を自分で動かすことができる、はいはいによって身体を移動させることができる、言葉を発して、コミュニケーションができるようになる、そういう段階を経て、次第に「人間らしい存在」になっていくと考える。
心理学はどうか。
私は臨床心理学科に所属していたのだが、心理学はどうもよくわからない。常識的に、心理学的には、「心が発生する」時点から人間であるということになるのだろうか。しかし、「心とは何か」という重大問題があり、これも専門外にはわからない。スキナーは、心は科学的に把握できないから、行動を研究対象とした。
フロイトは、精神分析のクライアントとして、子どもは排除したという。それは、子どもが自由意思によって、自分を分析し、相手に伝えることができないからだという理由だそうだが、それでも、もちろん、フロイトは、幼児から性欲をもつという前提から、精神分析理論を構築したのだから、子どもは人間ではないなどという見解をもっていたわけではないだろう。
「心」を常識的に「意識」と考えると、言葉を介して、まわりと意志伝達をするようになった時点ということになるだろうか。
肝心の生物学はどうなのだろう。身近にいる生物学の専門家に聞いたところ、受精から人間だと断言していた。確かに、受精卵が人間でないとしたら、どのような生物なのか。人間以外の生物から人間に成るということになってしまう。生物学的には、受精卵から人間であるとすると、生物学はキリスト教原理主義が主張する見解を支持することになる。
ただ、興味深いのは、不妊治療に受精卵を使うわけだが、その過程で、かなりの受精卵が廃棄されることになる。とすると、それは、人間である受精卵を殺して棄てることを意味する。生物学や医学研究においては、使われない受精卵が廃棄されることは、問題とされないが、宗教的には大きな問題になる。受精卵を棄てたことに対する訴訟が起きたことは、私は知らないが、調べてみる価値はある。キリスト教原理主義的な中絶反対論では、受精卵の廃棄は、死体遺棄となるはずである。「プラクティス」というアメリカの法廷ドラマで、ある女性が卵子を生活のために売ったことで、提訴されたという話はあった。
このように考えてみると、学問的な「いつから人間になるか」という考察は、中絶とからませることは、どうやら難しそうだ。唯一、教育学的な視点からの結論が、中絶肯定派と親和性があるようだ。