アメリカで争われている中絶の是非に関して、連邦最高裁での判決の草稿が漏れたことで、大きな騒動になっている。アメリカでは、プロ-ライフ・プロ-チョイスという言葉があるように、中絶を認めるか認めないかは、大統領選挙の大きな争点のひとつになるほど、重大なテーマになっている。
アメリカでは1973年に、中絶を合法とする最高裁判決がでていたが、それ以来も中絶反対派は、中絶を実施している医師を殺害するなど、かなり過激な反対運動もしてきた。しかし、先進国で、中絶が大きな社会・政治問題になる国は、ほとんどない。障害者基本条約が国連で締結されたときに、イギリスで大きな問題になったくらいではないだろうか。イギリスでは、胎児に障害がある場合には、出産直前までの中絶を認める法があったが、さすがに、障害者差別ではないかという議論が起こったわけだ。しかし、おそらくその法は廃止されていない。
アメリカでの議論が、中絶賛成は女性の権利を基礎に考えているのに対して、反対派はほぼ宗教的根拠によるものなので、議論そのものがかみ合わないものになっていて、結局、まったく異なる価値のどちらをとるかという争いになる。そして、人間観の領域の争いなので、対話によって見解が近づいていくということが考えられない。
典型的な考えの相違は、「いつ人間になるのか」という点だ。
中絶反対派は、「受精の瞬間からだ」と考え、極めて明快単純であるが、中絶賛成派は、いくつかの考えに分かれる。「受精卵が、人間の形をとり始めるときからだ」「人間の形をとり、循環器系などが動きだした時点だ」というのが、中絶賛成派の多数意見であり、その時点までは人間ではないので、中絶してもよいが、それ以後は、人間になるので、中絶は認められないという見解になる。さらに、徹底した賛成派は、無事に出産されるまでは人間ではなく、胎内から出てきたときから人間になる、もっと強烈なひとたちは、人間としての意識が形成されるまでは人間とはいえないという見解もある。しかし、出産して以降の中絶はありえないので、中絶論争の対象にはならない。江戸時代にあったとされる「間引き」に関わるのだろうが。
受精の瞬間から人間である、という見解にせよ、循環器系が動き出したときから人間になる、という見解にせよ、いずれも「科学的」な検証によって出てくる見解ではない。あくまでも個々人の感情といってもよい。特に、中絶反対派は、宗教的な信念であり、神の教えだから、絶対的に変更不可能、非妥協的である。この考えから、一切出ることがない。
それに対して、賛成派は、まず宗教的な信念から、ある程度自由になり、女性や家庭が置かれている状況を判断し、人が人間らしく生きるために障害となっていることを、除くことができる仕組みをつくることを目的としている。従って、状況によって結論は、例えば、いつから中絶を認めるのかという点での柔軟性がある。
このふたつの特質から、中絶反対派が、暴力的な行動にでることがあるが、逆はほとんどないという、非対称性が生まれ、妥協の余地がなくなっているのである。
少し視点をかえてみよう。中絶そのものの是非が、激しい社会的な対立を生んでいる先進国は、アメリカだけだが、では、ほかの国では、中絶に関する問題はないのか。歴史的にみれば、いくつかの国で、国家が中絶を強制する施策が行われ、その補償が問題となっている国がある。日本やスウェーデンだ。スウェーデンでは1960年代まで、障害者に対して、かなりの不妊手術を国家が行ったとされているし、日本でも優生保護法があって、同様なことが行われていた。日本では、その誤りを厚労省が認めたことは記憶に新しい。国家が不妊手術を強制するくらいだから、中絶に対しての原理的な反対は、ほとんどなかったと考えられる。現在はありえないとしても、戦前までは、障害をもって生まれると、助産婦が死産として扱うことも少なくなかったといわれているし、また、江戸時代までは間引きも確かに存在した。つまり、中絶反対派と比較して、胎児や乳児の生命を、軽く扱っているという非難も、あながち間違ってはいない。
そう考えると、中絶反対派の見解も意味があるようにも思われてくる。私自身は、まったく宗教を信じていないので、あくまでも、人間にとっての、この場合女性にとっての権利という観点から、まず考える必要があると考えるし、また、生まれてくる子どもの権利も考慮しなければならない。その点からすれば、仕方ない理由があれば、中絶は認められるべきであるという立場をとるが、しかし、それはあくまでも必要悪であって、中絶しなければならないような事態を生じさせない責任が、当事者にはあるということも、重要なことだろう。
いつから人間になるのか、というのは、別の大きなテーマを含むので、別途考えたい。