吉野家騒動と大学の教授の自由

 吉野家は、これまで2,3回しか入ったことはないが、正直あまりいい印象がなかったためでもある。トラブルのイメージも強かった。そして、今回は、とびきりのトラブルが生じて、既にたくさんの記事やコメントが書かれている。様々な論点について書かれているが、できるだけまだあまり書かれていないように思われる点について、気になることがあるので、書いてみる。
 事件の要点は、早稲田大学の社会人向けマーケティング講座で起きた。第一回だったそうだが、吉野家のマーケティングの責任者が、講義を行った。そのときに、「田舎からでてきたばかりの生娘をシャブ漬けにする」というのが、マーケティングの基本だと述べ、さらに、金持ちの男性に高級料理をご馳走されるようになれば、見向きもされないとまで言ったそうだ。そして、受講していた女性が、まずは大学に抗議し、SNSでそのことを公表したので、騒ぎになった。吉野家は大方の予想に反して、迅速にこの担当者を解雇して、謝罪したというのが、事件の顛末である。

 結果として、吉野家の評判までがた落ちになり、おそらく、売り上げにも相当響くだろう。マーケティングの責任者が、吉野家のマーケティングの説明をしたところ、その結果吉野家の売り上げに大きな悪影響を残しそうだという、まさしくブラックジョークのようなできごとである。
 
 さて、最初に興味をもったのは、コメントのなかに、「SNSにあげていいのか。講義内で起きたこと、発言を外部に漏らしてはいけないという注意があったはずだが」という書き込みがあったことだ。実際に、そういう注意書きがあるかどうかはわからないが、もしあったとしても、そういう規定が有効かという問題もある。少なくとも、事実上、そんな制限が守られる保障はない。よく政治家のオフレコの発言がメディアで報道されることがあるが、どんなに「オフレコ」を強調しても、その発言があまりに酷ければ、ジャーナリストは報道するものだ。そして、その発言が酷ければ、オフレコの約束を破ったジャーナリストが非難されるよりは、発言者に批判が集まるものだ。この講義についても同じことがいえる。
 では、こうした制限規定は、あってもいいものなのだろうか。もちろん、私的団体(私立大学)が行う講座なのだから、ルールを設定するのは自由であるが、私立大学といえども、公共的な組織だから、そのルールが、社会規範に著しく反する内容であれば、有効性を失うだろう。つまり、SNSで公開した女性を、ルール違反で訴え、損害賠償を請求したときに、認められるかという問題にもなる。私は、このルールの制約度と、公表したことの公共的利益を考えれば、賠償が認められるとは思えないのである。
 逆にいえば、こうしたルールを設定することは、極端にいえば、講義のなかで、かなり社会的モラルに反することを主張しても、許容するという趣旨になってしまう。実際に、このルールがあり、受講生が忠実に守っていたとしたら、講義内容が社会に漏れることはなかったし、従って、問題化されることもなかったわけである。私がみたコメントや見解で、内容を公表したことを批判したものは、上記のひとつだけであり、極めて少なかったのは事実である。従って、公表そのものについては、当然視されたと解釈できる。
 
 では、このことと、大学における学問・教授の自由とはどういう関係になるのか。
 憲法上の学問・教授の自由は、国家権力が、大学の研究や教育について介入すること、特に、そうした解説を授業で行うことを禁止する趣旨である、そうした教授を解雇する、などということを厳格に禁じている。しかし、社会に対して、教授内容、研究内容に批判を禁じるものでないことは明らかだ。だから、以下に研究・教授の自由があるといっても、大学教師は、社会に対しては、その研究内容や教育内容に責任をもたねばならない。つまり、社会からの批判を受けとめる責任はある。批判は、様々な政治勢力から行われる可能性があるが、健全な批判がなされるかは、国民の成熟に期待するものだろう。
 このように考えれば、今回のSNSでの講義への批判は、極めてまっとうで、正当なものだったといえる。私は、ルールとして「秘密保持義務」などを、受講生に求めるのは間違っていると思うし、そういうルールがなければ、講義できないという人は、依頼すべきではない。
 今回、何故こんな人を講師にしたのか、大学としての責任がある、という見解もあったが、年間を通して講義を依頼する様な場合には、論文などをみて、業績チェックをするし、内部の教員の推薦であれば、その教員への信頼の下で依頼することになるだろうが、ごく少数回の講義の場合には、組織依頼して(この場合吉野家)、その組織を信頼するしかないのが通常だろう。この担当者が、論文を書いているかどうかは不明だが、普通ビジネスマンが、学術論文などは書いていないだろうから、そういう点からのチェックなどは難しい。
 
 今回の講座は、おそらく少数の講師が、それぞれ多くの講義をもつというよりは、多数の講師がいて、少数の講義をもつ形態だったのだろう。だから、講師が引き続き講義をしないようにしても、批判は起きないし、トラブルにもならないだろうが、もし、この講師がほとんどの講義を引き受ける形の講座だったら、どうだったろうか。講師が、大学には、学問・教授の自由があるのだから、契約に反する担当降ろしは、憲法の原則にも反するといって、争ったらどうなるのだろうか。また、その争う相手は、誰になるのだろうか。この講義担当者は、吉野家からの推薦人事だったとされているし、吉野家が、推薦を取り下げたと思われる。とすると、相手は雇用主である吉野家となるのか。もちろん、当人に争う意志はないようだし、実際に、これだけ、いってみれば、あまりに社会の顰蹙を買う発言をしてしまったのだから、争うようなこともないだろうが、これがもう少し、政治的な要素をもっていれば、今回のように迅速な対応にはならなかったろうし、また、訴訟沙汰になった可能性もある。別の機会に、こうした事例を考察してみたいと思っている。
 
 ただ、やはり、こうした講義も、できるだけ社会に開かれる(つまり、講義録が事後なんらかの形で公表される)等、社会的な批判に耐えられるものに、担当者はしなければならない、という教訓として受け取りたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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