都立高校の男女別定員問題とは、大分性質が異なるが、東北大学工学部で、享受を女性限定で募集する例が話題になった。
募集要綱は、東北大学のホームページで見ることができる。
私は、文系の教授だったので、理系の募集形態はよくわからないが、募集要項を見る限り、厳格に決められた領域での募集ではなく、6つのグループに属する13の専攻のなかから、配属を希望する専攻を選択することになっている。つまり、13の領域にかかわって、5名の教授を募集する、そして、それは女性限定であるということだ。
私が経験してきた大学教師の募集は、すべて、特定の領域が指定されて、募集は1名である。もちろん、別の領域の募集も同時に行われることがあるから、その場合は、その数だけの募集になるが、領域が広範囲に指定されて、そのなかから自分にあう領域を選択できるという募集様式は、私自身ははじめて目にした。理系ではそういうことがけっこうあるのかどうかわからない。だからこそ、女性限定ということを打ち出せるのだろうと思った。特定の領域を指定して、募集1名ということになると、さすがに、女性に限るというのは、コンセンサスを得にくいのではないだろうか。
ヤフコメをみている限り、圧倒的に批判的な見解が多いが、それを参考にすることは、今回はやめて、私自身の疑問をまずは書いておきたい。
教授の募集というのが、理系では多いのかわからないが、私の経験では、教授職を募集することはあったが、むしろ、分野が限定されれば、常勤講師や准教授を募集して、そういう人がやがて教授に昇進することが多かった。しかし、教授としての募集だから、13の研究科には、准教授もたくさんいるに違いない。そして、教授は123人中2人しかいないのだから、准教授もおそらく似たような状況だろう。とすると、13の研究科の男性の準教授たちは、せっかくの昇進の機会であるにもかかわらず、応募の機会を閉ざされることになる。性別の制限がなければ、当然、内部からの応募が可能になるはずである。それとも、そういうこととは無関係に、ある程度の年数がたち、十分な業績があれば、そういう機会とは無関係に、教授に昇進できるのだろうか。それならば、問題はないかも知れないが。
私がかつて在籍していた学科は、実はいまは女性の教員のほうが多い。私が在籍していたときには、男性のほうが多かったのだが、複数男性教授が退職して、後任はすべて女性だったために、男女比が逆転した。だから、選考の際に、女性を排除するということはまったくなかった。いまどき、まっとうな大学であれば、大学としての生き残り競争をしているのだから、よい教師を迎えることは必須の条件になっている。だから、優秀な女性が応募してきたのに、劣る男性を採用するというのは、皆無とはいえないだろうが、よくある状況とは思えないのである。特に人文系の教員募集では、女性は増えつつあると思われる。
しかし、理系の教授が少ないことは、否定できないことである。だが、それが女性差別の結果であるとは、単純にはいえない。もちろん、業績主義と育児等の問題で、女性が研究者になりにくいことは、一般社会における管理職になりにくい面と同じ状況があることは確かだ。だから、そうした面での改善が必要であることは、いうまでもない。しかし、大学という世界は、少なくとも制度的には、民間企業などに比べれば、育児休職等がとりやすい環境にある。
だが、そうした改善がなされれば、女性の教授に応募する人が増えるかというと、まだ多くの改善点があると思うのである。
現在は、状況が変わっていると思うが、私が学生だったころ、理系の女子学生は、極端に少なかった。私の娘の時代でも、多少増えたとはいえ、やはり、女子学生の圧倒的多数は、文系の学生だったと思う。では、男性ではどうかといえば、男性も文系の学生が圧倒的に多いことは間違いない。そもそも、日本の大学は、文系学部の定員が理系に比較して、非常に多いからである。しかし、それでも、男性のほうが理系にいく人が多いのも事実だ。それが何故なのかは、いろいろな理由があるだろう。
ただ、はっきりいえることは、理系の女子学生が昔から少数だったのだから、大学院生も少なくなり、そして、研究職をめざす女性も、そして、教授も少ないのは結果として当然といえる。だから、長期的には、理系学部の女子学生が増えること、そのためには、小学校からの理科教育の改善が必要だということになる。あまりに迂遠のようだが。教育の課題は、当然今回の募集とは無関係なので、別途論じたい。
今回の募集は、理論的には、積極的是正措置、アファーマティブ・アクションの問題である。つまり短期間に是正する措置だ。そこを考えてみよう。
助教レベルだと、女性限定の募集はけっこうある。とにかく、女性の活躍の場を広げるということで、政府からの強い指導もあり、そうした形がとられるわけだ。私の身近でも、そうした募集で就職した例がある。しかし、そういう温情を伴った募集は逆に好まないといって、応募を控える女性研究者もいる。国会議員の比率とか、経営者(取締役)の比率等々、様々な領域で、女性の登用が強く求められている。
今回の東北大学は、方式が違うのだが、一般的には、特定の領域を1名募集することが普通だといえる。男女比を是正するといっても、完全に専門領域に属し、そのポストの募集が原則1名というときに、性別を限定するというのは、その専門性を低めてしまう可能性があるし、逆差別であるというべき事例だと思うのである。大学の、しかも理系の教授職は、明確に実力がないと務まらない職業である。(私は、文系の教授であったので、残念ながらは、文系は日本に極めて多くの大学があり、必ずしも実力が伴わない教授もいたことも否定できない。それは明らかに大学にとってマイナスになる。)専門的な知見が必要な領域でも、同じ分野を数名採用するような場合であれば、女性の最低募集人数を設定するようなことは、是正措置として有効かも知れない。しかし、領域1名募集であるのに、女性限定というのは、明らかに研究職としては合理的な理由は認められない。女性を増やす措置として、もし、ほぼ同等の能力や識見があると見做される場合には、女性を優先するということを、予め募集要綱に記述して、そのようにすることは容認できる。そして、逆差別にはならない。
原則的には、機会均等原則が妥当か、結果の平等原則が妥当かという問題になる。領域によって、異なると思うが、私は、人の採用に関わる領域では、基本的に機会均等原則が適切であると考えている。
結果の平等論は、機会均等原則が適用されて、自由で公平な競争が行われていても、その前の段階での不平等によって結果が左右されるのだから、前段階をも考慮して、決めるべきであるという考えである。そして、通常「前段階での不平等」も主要な領域に単純化されるのが普通で、アメリカの場合、地域の民族構成が考慮されることになる。
大学の入学者を決めるアファマーティブ・アクションに関しては、ソ連の歴史上存在した「労農予備校」との比較が興味深い。
アメリカのアファマーティブ・アクションは、黒人などの差別の根源は、黒人が貧困で職業的にも単純労働が多い。それは、高等教育を受けていないからである、黒人の多くが大学に入学できないのは、貧しいために高校までの教育環境が貧弱だからであり、本来の能力は白人とかわるところがない。だから、黒人と白人の入学者の割合を、住民の比率に揃えれば、結果として、最も公正で平等になるという考えである。つまり、アメリカでは、差別の民族的側面を重視して、比率を考慮する。
それに対して、ロシア革命後しばらくの間存在した労農予備校は、有産階級か労働者階級かという問題が設定されていた。労働者の政府を樹立する革命によって、ソビエト政府が成立したが、労働者に大学教育を受けるように奨励しても、入学試験に通る労働者の青年はほとんどいなかった。しかし、ソビエト政府は、労働者枠、つまり有産階級と労働者の割合を決めるアファマーティブ・アクションをとることはなかった。つまり、能力が低いのに、労働者階級であるが故に大学に入学できるようには、考えなかったのである。そこで、労農予備校という教育施設を設置して、労働組合の推薦を受けた青年が学び、実力をつけてから大学を受験するという道をつくった。つまり、結果の平等ではなく、機会の平等の「実質化」ともいうべき措置である。これは、アメリカで実施されているアファマーティブ・アクションより、公正であり、かつ効果も大きいといえる。(スターリンが、ソ連では階級が消滅したと称して、この学校も廃止されたとされる。)基本的に同じ入学試験を受けるわけだから、機会均等が保障されており、十分な学力をもって大学に進学することになる。
しかし、アファマーティブ・アクションによる優遇措置で入学した黒人の学生は、大学の授業についていくことができず、単位をとれないで退学していく学生も少なくないのである。アメリカの大学は、単位認定が厳しいので、学力が低いままで入学した学生には、かなりハードルが高くなる。結局、せっかく配慮された入学したが、結果が伴わなくなりがちなのである。このような点を考慮して、黒人ですら、アファマーティブ・アクションには反対する学者も少なくない。
やはり、高等教育や専門職においては、何よりも質的確保と向上が第一優先なのではないかと思うのである。