ゼレンスキー演説への批判の検討

 昨日(3月23日)に、ウクライナ・ゼレンスキー大統領の、日本に対する演説が国会議員会館を通じて、オンラインで行われ、リアルタイムで全国に放映された。私ももちろん最初から終わりまで見たが、予想された強いものではなく、むしろ落ち着いた内容の、とても訴える力の強い演説だったと思う。私には、一番の力点は、ロシアに対する経済政策の継続と、戦後のウクライナ復興に対する援助を期待することだったと理解した。十分、ウクライナ情勢を理解している人にとっては納得できることだろう。もっとも、ロシアに対する経済制裁については、日本はそれほど徹底しているようには思えないので、今後、議論になるところではないだろうか。
 それはさておき、この演説の前後に、ネガティブな見解も出されていたので、それに対する意見を書いておきたい。
 
 まず事前の批判として、鳥越俊太郎氏が、戦争の一方の当事者であるウクライナ大統領にだけ、国会演説の場を提供するのは、公正ではないと批判していたことについて。

 はっきりいって、鳥越氏の演説反対は、まったくナンセンスだ。鳥越氏は、都知事選出馬あたりから、おかしくなったようだ。保守派からすれば、前からおかしかったということだったろうが、私からみれば、前はまともだった。都知事選出馬がおかしかったともいえるが、それをきっかけにだされたスキャンダルに対して提訴したことが、私には驚きだった。リベラルのジャーナリスト、文筆家、研究者が、自分に対して向けられた非難に対して、言論を尽くす前に提訴することについては、社会的な自殺行為だと思っている。もちろん、保守的な立場でもそうだが、保守派は、国家的立場にたっているわけだから、国家に保護を求めるのは、論理的にあまり矛盾しないかも知れない。しかし、リベラルは国家に対しては、比較的距離をおく立場である。にもかかわらず、「表現の自由」のなかで対応するのではなく、裁判という国家権力に頼ることは、「表現の自由」を自ら制約する行為なのである。もちろん、文章を書いて生活しているのではない、一般人は、たとえリベラルであっても、防衛のためには、司法に頼ることもやむをえないかも知れない。しかし、鳥越氏のような文章で生活している人は、「表現の自由」の享受者であって、それを可能な限り最後まで、相手の表現の自由を容認しない方法をとるべきではない。
 鳥越氏が提訴したとき、私は、彼が都政を担う資格に欠けると思わざるをえなかった。もっとも、私は都民ではないので、そもそも選挙権がないから、誰に投票しようかという迷いがあったわけでもないのだが。
 従って、今回、鳥越が、紛争当事者の一方だけ国会演説を認めるのはおかしいと反対したことは、意外でもなかった。もちろん、ロシアのウクライナ侵攻には、なんらの正当性もない、明らかなロシアによるウクライナ侵略戦争だから、ウクライナだけの演説を認めることは、おかしなことではない。むしろ、プーチンに、国会での演説の場を提供することこそ、侵略者に利益を提供することだ。
 もし、鳥越的な見解に合理性があるとしたら、プーチンのウクライナ進行にも、正当な理由があるという点が認められる場合だろう。何度も書いているが、私はゼレンスキーの対応に批判されるべき点があったと考えているが、それは、だからといって、プーチンがウクライナを侵略してよい理由にはまったくならない。いじめの比喩で述べたように、いじめられる側に欠点があったとしても、それを理由にいじめてもよいことには、絶対ならないのである。単純だが、プーチンとウクライナの関係も同じことがいえる。プーチンには、正当性がまったくないのだから、一方の当事者であるゼレンスキーだけに、演説の機会を与えることは、むしろ当然であろう。
 
 もうひとつの事前の批判は、立憲民主党の泉代表のものだ。国会で外国の大統領が演説するのならば、内容について事前の調整と了解が必要だというような趣旨だった。しかし、これはおかしな話だ。外国の大統領は、日本の政党に属しているわけではなく、その国の事情に基づいて、日本に訴えるのだから、当然、自由に語ってもらう必要があるし、そこに制限を加えるべきではない。もし、日本として受け入れがたい内容があれば、それを実行することを断ればいいだけのことだ。泉氏のいうようなことを実行したら、できレースの演説だけ認めることになってしまう。
 
 さて、実際の演説は概ね好評だったようだが、いくつか批判もでたようだ。私の目についたものについて書いておきたい。
 れいわ新撰組が、事前にスタンディング・オベーションを決めておくのはおかしいという点を批判していたようだ。それ以外の点は肯定的だったということだが。
 確かに、いかにも入学式や卒業式の「(裏)式次第」という感じで、大人げないなとは思う。それに、そんなことが書かれていなくても、自発的にスタンディング・オベーションになったのではないか。
 
 もう一つ、真剣に考えねばならないのは、中村筑波大教授の言葉だろう。プーチンに敵視される危険があるという警告を発しているのだ。
 中村氏とのインタビューをまとめた記事だと思われるが、その要点をまとめておこう。
・経済制裁がきいており、プーチンの怒りが日本にも向けられる。
・プーチンはロシアへの非友好国リストを作成し、日本も入っている。
・プーチンは実際行動に既に移っている。
3月10日 択捉島でミサイルを使った軍事訓練
  11日 ロシア海軍が津軽海峡を通過
  21日 平和条約締結交渉を中断すると発表、ビザなし興隆の停止、北方領土での共同経済活動の撤退
・こうした事実から、日本を攻める可能性と、アイヌ民族をロシア先住民族に認定という考えを示しているので、アイヌ民族の保護を名目に、ロシア軍が北海道に侵攻するリスクは、まったくありえないわけではない。
 以上が中村氏の「危惧」である。確かに、そうしたことは、完全に荒唐無稽であると断定することはできないだろう。しかし、中村氏は、だから、ゼレンスキーの演説を認めるべきではなかったと述べているわけでもないし、また、ロシアの攻撃の可能性に対して、どのような対応をすべきなのか、経済制裁を緩和すべきとか、プーチンにも国会演説を認めるべきだとか、そういうことは一切示していない。
 危惧は危惧として受けとめる必要はあるだろうが、明らかにプーチンが、国際法を無視して、戦争犯罪を行っていることを考えれば、被侵略国であるウクライナ援助をすることは、当然とるべき対応であるように思われる。プーチンは、ナチからウクライナを守ると語っているが、事実は、プーチンがナチと同じことをやっている。
 少なくとも、中村氏の危惧への対応は、経済制裁を緩めるような、対立しない方向ではなく、強化の方向ではないだろうか。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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