東大前での刺傷事件を考える

 不可解で悲惨な事件が起きてしまった。名古屋の高校生が、大学共通テストが行われている東大の前の道路で、複数の人に切りつけたという事件である。高速バスで名古屋から上京し、地下鉄の駅(たぶん本郷三丁目だろう)付近で放火をして(たいした被害とはならなかった模様)、その後、東大に向かっての犯行だったという。刺された一人は高齢者で、残り二人は受験生だった。受験することができなかった彼らに対して、どのように配慮するかは、今後の検討による。
 報道されている限りでは、名古屋の最も進学実績の高い伝統校(私立)で、二年生だった。東大の理三をめざしているが、成績が落ちて医者になれそうにないので悩んだ結果としての犯行だったことを仄めかしているそうだ。 
 これ以上のことは、大手メディアの報道ではわからないが、ネット情報を検索していくと、ますます理解が困難になっていく。

 当初、私は愛知県の伝統校だというので、過去の有名な愛知の管理教育の影響を受けている学校なのかと考えていた。かつての東郷高校に代表されるような、常軌を逸した管理教育は、大きな話題となったし、様々な弊害が生じたと言われている。特に、影響が大きかったのは、人数割合を決めた通知書の「人物評価」が、高校進学に基本材料となることがあった。端的にいえば、一定数Cをつけなければならず、Cをつけられると高校進学がほぼ不可能になるという状況である。現在では考えられないが、社会的な批判を浴びてやめられるまで、実際に行われていたようだ。
 そんなことを考えているときに、この高校では、高一で理系文系にわかれ、しかも成績順にクラスが編成されて、その後変更できないという、ネットの書き込みをみて、やはりそうかと思ったわけだ。
 しかし、その後、高校の評判や在校生の評価ページを読むと、そうしたイメージとは大分違うことが書かれていた。
 とにかく自由で、規制がほとんどない。進路指導なども事実上なく、相談には乗ってくれるが、自分の志望がほぼ完全に認められる。部活もさかんであり、いじめなどもない。
 いいことばかり書いてある評価が圧倒的に多いのだ。もちろん、否定的な評価は削除しているのかも知れないが、自由に書かれたブログなどをみても、あまり変わらないように思われた。ただし、2年生で文理に分けれ、更に成績でクラス分けされるというのは、事実らしい。いくら自由だといっても、そうしたクラス編成がとられることは、大きな精神的負担を感じる生徒がいてもおかしくはない。特に、県内トップ校では、入学以前は学校やクラスでトップの成績だった人が多いだろうから、そんな彼らが、成績が悪いクラスに配属されたら、かなりのショックを受けるのも自然なことだ。底辺校で、もともとが成績の悪い生徒たちの学校であれば、そうしたショックは、かなり和らぐのではないかと思うのだが、トップ進学校であれば、避けられない弊害だ。進路別と更に成績でクラス分けされるのだが、AとBにわかれていて、Bの群に入ってしまうと、かなりの劣等感に苛まれるというネット情報もあった。更に、成績で人間を判断する傾向があるので、下位群になると、人間的に否定されたように感じる生徒もいるというのだ。 
 少しだが、教師たちは、生徒の自主性を重んじて、受験指導などをしないので、落ちこぼれてしまう生徒も少なくないし、「ヤバイ」というような生徒たちも少なからずいるというネットの書き込みもある。
 
 ただし、以上のようなネガティブなネット情報は少数派で、多くは自由で活発な高校生活を送っているという話が溢れている。そうしたネットの評価を参照していると、どうしても、学校教育のありかたが抑圧的で、そこから落ちこぼれてしまった結果の犯行というイメージは出てきにくいのである。家庭は代々の医者だったようだから、医者になるようにという無言の圧力はあったかも知れない。しかし、医者になるために、理三にいく必要はないので、理三は無理だから、医者になれないというのは、あまりに不可解な意識だ。
 事件を起こした少年は、その学校の生徒としては、例外的な存在で、学校側の謝罪文で言われているように、コロナ禍で、教師や友人との交流が立たれたために、学校の教育スタイルとはまったく違う方向に、いってしまったということなのだろうか。
 
 現在では、まだ詳細がわからないので、過去の事件を多少振り返ってみよう。
 高校生が、無差別殺人をしたあと、自らも死ぬという発想で事件を起こしたものとして、私はまず早稲田高等学院事件を思い出す。高名な東大教授だった祖父をもち、東京の高級住宅地で育ったAは、祖母を殺害し、そのあと新宿にでて無差別殺人を実行し、そのあと自殺するという「計画」を立てて、祖母を殺害するまでは実行したが、新宿にまで行かずに途中下車し、ビルから飛び下りた。父母の離婚、祖母による過度の期待などに悩んでいたとされるが、膨大な、歪んだエリート論を残して、自ら命を絶った。
 親の期待に応えられない学歴コンプレックスという点では、秋葉原の無差別殺人事件のKが思い出される。類似の事件がいくつも起きているが、Aのように自ら死ぬことはなく、「死刑になる」などといって、犯行の理由付けにする事例が、その後いくつか出てきた。
 高校ではないが、名古屋大学の理学部の女子学生Bが、布教をしている高齢の婦人を殺害する事件があった。これは外見的にはまったく異なる事件で、Bは小学生のころから薬物や人の死に興味があって、自分で薬物をつくっては、同級生の飲み物に注入して、変化を観察する行為を複数回行っていた。Bの場合も、祖父が有名な東北大学の教授だったが、父親は研究者になりたいが就職できなかったので、職業をもたずに研究をしていて、家庭を顧みなかった。そういう中で、Bは自分の人の死に対する関心を異常に育ててしまったのである。高校時代、被害者の一人が警察に訴えているので、学校は事実を掴んでいたはずであるのに、結局対策はとらなかった。
 
 教育的な側面から考えれば、親も学校の教師も、そうした異常な関心について、正面から向きあって対応した形跡がない。神戸で友人の小学生を殺害した中学生も、小学校時代、担任に「何故人を殺してはいけないのか」と真剣に質問したという。今回のAが、そうした特異な関心を露にして、ある意味SOSを発していたかどうかはわからない。高校の説明のように、コロナがあったために、SOSが伝わらなかったり、担任も感知しながらも有効な手だてをとりにくかったということもあるかも知れない。
 しかし、後付けの反省になるが、やはり、なにか特異な感受性をもって、それが特異な行動として現れていたら、親や教師は、真剣に対応しなければならないのだという、ありきたりの結論しか、今のところ出てこない。
 ただ、メディア対応として、犯行そのものや、犯人が準備した道具などを詳細に紹介するのは、模倣犯を誘発しているような効果があると思わざるをえない。事件の冷静な分析は必要であるが、後追い犯行が可能になるような情報提供は、慎むべきではないだろうか。いつも思うことだが。
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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