教師の免許更新制廃止大賛成 他にもある安倍内閣による教育改悪を戻そう

 教師が10年ごとに、必要な講習を受けて、教員免許の更新をしなければならない制度が、いよいよ廃止されることが決まったようだ。従って、新年度からの講習は開催されないことになるのだろう。大変いいことだ。医師や弁護士のような高度な専門性を必要とする資格ですら、更新制度がないのに、教師にだけ更新義務を課すのは、いかにも教師いじめ的な現象だし、そもそも、短期間の講習とテストを受けて、教師の力が増すわけでもない。いかにも、教育現場を無視した、安倍内閣の人気とり政策であったのだから、廃止はもっと早くになされるべきだったが、もちろん、実施当人の安倍内閣では不可能だったのが、やっと、安倍内閣が終わって、廃止に向かって動き出していたわけだ。

 岸田内閣の支持率は上昇しているが、マスコミ的には不可思議な現象らしい。まわりの意見を聞き入れることは、一般的には悪いことではないし、何よりも安倍内閣の負の遺産を清算していることは、大いに期待できる。象徴はアベノマスクの廃棄であろう。それでも、廃棄コストもかかるようだが、保存コストのほうが圧倒的に大きいのだから、速やかに廃棄を決めたことはけっこうなことだ。また、安倍内閣がいかにナンセンスなことをやったかを、国民に思い出させた点もプラスだ。
 そして、これだけではなく、もっともっと安倍内閣の行った「改悪」を元に戻してほしいものだ。私の専門である教育の分野では、とにかく安倍内閣の行った施策は、教育破壊の元凶がほとんどである。
 
 まずは、教育基本法の改定があった。多くの人は知らないと思うが、2006年に教育基本法が改定されて以降、教育行政の文書がまったく様変わりしたものだ。以前は、教育基本法は完全に無視されていたが、改定以降は、ことあるごとに、教育基本法の精神に則って、というような文言がはいることになった。そもそも、教育基本法は、憲法的な法律なのだから、改定以前でも、教育行政は教育基本法を尊重しなければならなかったはずである。しかし、以前はほとんど敵視していたのである。そして、その敵視の要素を、安倍内閣は取り除いてくれたわけで、文部官僚としては、安倍内閣さまさまなのだろう。しかし、その取り除かれた要素こそ、教育の民主主義の根幹だった。文科省は、教育の国家管理をめざしているから、その教育基本法の条文(10条)は、目の上の瘤だったわけだ。10条は、教育行政が教育に不当な干渉をしてはならないことが、明記されていたのである。それを安倍内閣は取り除き、逆に、文科省や教育委員会が、教育計画を作成することを任務とした。つまり、教育行政による「干渉」を「任務」にまで高めたのである。こういういい方は、おかしいと感じる人がいるかも知れないが、その後に起きていることは、あってはならない「干渉」のオンパレードなのである。
 
 次に「全国学力試験」の実施である。再開というべきかも知れない。
 日本ではながらく「ゆとり教育」が行われていて、その評価は多様だったが、21世紀になってはじまったPISAで、第一回は非常によい成績をとった日本が、第二回では多少落ち込むことになった。それが異常に意識され、ゆとりではだめだ、学力が低下するというキャンペーンがはられ、学習指導要領が、ゆとり路線から学力重視路線に転換することになり、更に、学力を高める必要があるということで、学力テストが実施されたのである。1960年代にも、全国学力テストが行われていたが、過度な競争を刺激したことと、不正が横行していることが明るみにでて、中止を余儀なくされていた。それを復活することは文部省の悲願だったのだが、時期的な偶然もあったろうが、安倍内閣が実施してくれたというわけだ。現在はマスコミ統制が以前よりずっと厳しいし、また、大手メディアは安倍内閣に忖度しているから報道されることがほとんどないが、この全国学力テストは、現場を疲弊させている大きな要因である。不正もかなりあると言われているのだ。実際には、文科省が実施する「全国」版だけではなく、「都道府県」版、そして、「市町村」版まである。もちろん、地方レベルでは、すべての自治体が実施しているわけではないが、東京や大阪なのどの大都市では、この三重のテストが、日常の学習を支配しているといっても過言ではないのである。そして、試験が近づくと、過去問などで練習をさせている学校も少なくない。試験のための学習が、いかに発展的な学力を阻害しているか、多くの人が体験していることで、この弊害は理解できるだろう。
 昨年、教科研が、全国学力試験の悉皆調査をやめて、抽出調査にすべきだという主張の本を出版したが、文科省が主催する学力テストそれ自体をやめる必要がある。抽出調査なら問題ないということは決してない。
 欧米に追いつくための教育がなされていた時期は、とうに過ぎている。受験を契機に学習させるスタイルから早急に脱しなければならないことを考えれば、こうした三重の学力テスト体制は教育にとって、悪影響をもたらすだけである。
 
 そして、第三に、道徳教育の教科化を元に戻すことが必要だ。道徳を「教科」にしたことこそ、安倍晋三という政治家の特質が最も顕著に現れた点である。森友学園の問題は、今や公文書の改竄に焦点がいっているが、ことの発端は、教育勅語を中心理念とする小学校を建設しようとした籠池夫妻を、安倍夫婦が応援したことである。教育勅語の信奉者だからこそ、道徳教育を「教科」にしてしまったのである。
 道徳教育は必要ではないかという、素朴な感覚からは、道徳教育の教科化は当然だと思われるかも知れない。しかし、道徳教育を行うことと、教科として教えることは、重大な違いがいくつもある。
1 教科にすると「成績」をつけることになり、検定教科書を使うことになる。つまり、道徳、あるいは社会生活における基本的価値を国家が決めることになるし、また、その価値に関して、人物を評価することになる。これは、憲法で保障された「良心の自由」に反するだけではなく、結果的には、不当に教師による子どもの「支配」の道具になる危険性すらある。
 戦前の道徳教育は教科としての「修身」だった。「修身」の成績が「甲」でないと、中学に進学することができないとされており、しかも、修身の成績などは、教師の主観によるものだから、子どもは、教師に従順になることを、半ば強制されているようなものだった。人をもの言わぬロボットのように育てる上で、道徳の強化は便利な施策であり、成績をつける教科としての道徳は、その具体化といえる。そのような教育で、主体的な人間など育たないのである。
2 道徳という教科は、実は先進国では極めて珍しい、他に例をみないような教科なのである。国際的に有名な新渡戸稲造の『武士道』という本があるが、これは、新渡戸が、欧米人から、「日本では宗教がないのに、どうやって道徳を教えるのか」と質問されるので、それに対する回答として執筆したものである。つまり、宗教という形ではないが、武士道という道徳があり、それで教育しているのだというわけだ。欧米社会では一般的に「宗教」という時間が設定されており、また、高校くらいになると、「倫理」や「哲学」で、より高度で、批判的な価値論を学ぶことになっている。そして、重要なことは、「宗教」の時間は確かに存在するが、それは「選択」可能になっていることだ。まったく受けないことも認められることが多く、宗派を選択することができる。「倫理」や「哲学」は、価値観を教えるのではなく、価値観の批判的な検討をする教科である。価値観を教える「宗教」は選択することができ(つまり受けない自由もある)、更に上級学年になって、価値観そのものを考察する授業を受けることになる。
 ところが、日本の道徳は、選択ではなく、必修である。つまり、全員が同じ内容で学ばなければならない点が、欧米とは違うところなのだ。国民が同じ教育を受けるのだから、その方がいいではないかという意見もあるだろう。しかし、今や、学校で学ぶ者がすべて同じ道徳観、価値観をもっているわけではない。日本人のイスラム教徒もいるし、エホバの証人の子どもは、宗教上の立場を認められるようになってきつつある。それは当然道徳教育にも及ぶことになるはずである。価値観は、多様な社会になっていることを忘れてはならない。価値観に直接関係する領域で、必修でかつ成績がつくなどということは、あってはならないことなのだ。
 
 以上に、いかに安倍内閣が、日本の学校教育にマイナスの政策を押しつけてきたかが理解できるはずである。安倍政策の清算を、岸田内閣にはぜひ継続的に取り組んでほしいものだ。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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