日本で評論家に無視された指揮者1 ラインスドルフ

 評論家がどの程度、一般の人たちに影響を与えるのかはわからないが、評論家がこぞって、同じような見解を述べていれば、それなりの影響を与えるに違いない。音楽、レコード業界でもそうした現象がいくつかあった。カラヤンですら、若いころは、(後々まで影響を受けた人もいるようだが)評論家たちの多くにけなされ、低くみられていた。日本のクラシックの音楽評論家たちは、フルトヴェングラー信者が多かったので、カラヤンは「精神性がない」といって、邪道扱いされていたのである。
 それでも、カラヤンはヨーロッパにおける楽団の帝王だから、日本でもファンは多かったし、そうした評論家に影響されない人たちもたくさんいた。しかし、なかには、評論家たちにほとんど無視、ないし低評価を継続的に受けていたおかげで、実力が極めて高いのに、日本では人気があまりでなかった人たちがいる。そういう何人かを、時々とりあげていきたい。
 最初に取り上げたいのがエーリッヒ・ラインスドルフである。

 私が記憶に残っている最初の、そして唯一といっていいのは、1963年に、ケネディが暗殺されて、翌年追悼ミサが行われたとき、ラインスドルフが、モーツァルトの「レクイエム」を指揮していたことだ。これはテレビで全曲放映され、私はそれを全部見ていた。たしかボストン交響楽団だった。しかし、その後、ラインスドルフを積極的に聴こうとせず、意図的にCDを集めることもなかった。ソニーの安いボックスで、ラインスドルフのベートーヴェン交響曲全集が出たので、買おうと思ったら既に品切れだったことがあったくらいだ。
 つまり、評論家の無視に近い状態だったラインスドルフに興味を抱かなかったわけだ。ところが、意図せずに、いろいろ買ったボックスに、ラインスドルフの指揮するものがけっこうたくさんあることがわかった。すべてオペラで、管弦楽曲はまったくないのが、我ながら残念だ。
 安いオペラボックスをけっこう購入しているが、そのなかに以下のものが入っていた。
・デッカの100枚CDオペラ集に、ワーグナー「ワルキューレ」
・レオタイン・プライスのオペラボックスに、モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」、ヴェルディ「仮面舞踏会」「アイーダ」、プッチーニ「蝶々夫人」
・リビング・ステレオ60CD集にプッチーニ「ラ・ボエーム」「トゥーランドット」
・ディア・パッソン25オペラに、リヒャルト・シュトラウス「サロメ」、コルンゴルド「死の都」、ヴェルディ「マクベス」
以上である。今回、未聴のものは、さわりを聴いたが、トゥーランドットと死の都は聴いていない。できるだけ早く聴きたいと思っている。特に「死の都」はラインスドルフの代表作と言われているので、聴かずにすますことはできないが、全部聴くには時間が必要なのだ。
 
 さて、昨晩「ワルキューレ」一幕のさわりを聴こうと思ったのだが、途中で止められなくなって一幕全部聴いてしまった。こんなに優れた「ワルキューレ」のCDがあるのかと、ちょっと驚きだった。主なキャストは
 ジョン・ヴィッカーズ(ジークムント)
 グレ・ブロウエンスティーン(ジークリンデ)
 ジョージ・ロンドン(ヴォータン)
 ビルギット・ニルソン(ブリュンヒルデ)
 デイヴィッド・ウォード(フンディング)
 リタ・ゴール(フリッカ)
で、オケはロンドン交響楽団、録音は1961年である。ショルティの「指輪」全曲録音が始まったのが1958年で、次の「ワルキューレ」は1962年だから、戦後ステレオによるセッション録音としては、2番目のものだったに違いない。シリーズの予定だったのかどうかはわからないが、残念ながら、「ワルキューレ」だけになってしまったようだ。
 演奏はすばらしい。まずオーケストラが完全にドラマの内容を、目に浮かぶような明晰さで表現している。前奏曲は、嵐であることを再認識させるし、ジークリンデとジークムントの最初のとまどいながらの会話、フンディングが登場するときの不気味な雰囲気、二人が次第に惹かれていく高揚感、そして、窓が突然開いて光が差し込む場面の空気感の転換等々、オケの演奏を聴いているだけで、何が起きているかがわかるような感じだ。音だけで、これほど場面を彷彿とさせるワルキューレの演奏は初めてだ。
 歌手は、一幕なので3人しか登場していないが、いずれも満足するできたが、特にヴィッカーズのジークムントがすばらしい。カラヤン盤でも歌っているが、こんなによかったっけ?と思わず唸ってしまった。カラヤン盤では、ジークリンデがリリカルなヤノヴィッツなので、全体として柔らかい雰囲気で歌っているのだが、ここでは、正に英雄の一人だったことを思い出させる。子どもがジークフリートなのだから。
 
 次に感心したのが「アイーダ」だ。
 このオペラは、視聴するたびに、妙な話だなあと思ってしまう点がある。エジプトの将軍ラダメスとアイーダ(エチオピアで捕らえられ奴隷になっている)と相思相愛だが、エジプトの王女アムネリスもラダメスを熱烈に愛している。再びエチオピアを破って凱旋した捕虜にアイーダの父アモナスロ(エチオピア国王)が含まれており、身分を隠しており、アイーダがラダメスに助命を頼んで、釈放される。そして、ラダメスとアイーダが逢い引きをしているときに、アイーダが、次の軍事攻勢のときの経路をラダメスから聞き出し、それを発見したアムネリス一同に、ラダメスは情報遺漏で逮捕され、アイーダは逃げてしまう。そして、裁判にかけられるまえに、アムネリスは、自分を愛してくれれば助命するとラダメスにいうが、ラダメスは拒否し、牢にいれられ、死を覚悟しているが、そこにアイーダが現れ、ともに死のうということになる。
 これが、粗筋である。ドン・カルロを作曲して、引退気分だったヴェルディに、エジプトのカイロ歌劇場が建設され、作曲が依頼される。最初断っていたヴェルディだが、アイーダの筋を提案されて、興味をもち、作曲を引き受けたということは、有名である。ヴェルディの決心をかえたほどのすばらしい筋だったわけだ。
 何が奇妙だと思うかというと、第一に、エジプトの最高軍事司令官であるラダメスが、敵国出身の奴隷を命をかけて愛し、自国の王女の熱烈なラブコールを無視するという点である。芸術家や文民だったら理解できなくもないが、愛国心にもえてなければならない将軍とは思えないのだ。第二に、アイーダに軍事機密を告げてしまったあと、アモナスロが現れて、自分たちの身分を告げるのは、いかにも不自然だ。聞き出したのだから、秘密裏に帰国して、勝利の作戦を考えるはずである。機密が漏れたことが、エジプト側にもわかってしまったから、結局、アモナスロは次の闘いでも破れてしまう。
 どう考えても、合理的でないこの筋展開は、ドラマを盛り上げるためには必要だったのだろうと思うことにしてはいるが。
 さて、アイーダの演奏は、オーソドックスなものが多いが、アムネリスの役柄がおおざっぱにいって、2パターンある。王女の権力をちらつかせた悪女タイプと、対極の女性らしいこまやかな配慮をみせるタイプである。一幕を聴いたあと、私の好きな四幕のアムネリスとラダメスの二重唱、アムネリスが自分を愛してくれれば、助命するといって、ラダメスに懇願する場面だ。そして、ムーティ(ドミンゴ、コッソット)とアバド(ドミンゴ、オブラスツォア)と同じ場面を聴き比べてみた。ラインスドルフ盤のキャストは以下のとおりである。
 レオンティーン・プライス(アイーダ/ソプラノ)
 グレース・バンブリー(アムネリス/メゾ・ソプラノ)
 プラシド・ドミンゴ(ラダメス/テノール)
 シェリル・ミルンズ(アモナスロ/バリトン)
 ルッジェーロ・ライモンディ(ランフィス/バス)
 ハンス・ゾーティン(エジプト王/バス)、他
 ラダメスは三者すべてドミンゴだ。バンブリー→コッソット→オブラスツォアという順で、権力者風、傲慢な雰囲気になっていく。物語はさておき、ヴェルディの書いた音楽は、決して権力者の王女ではなく、一人の女として、ラダメスの愛を得ようと懸命に努力している女性だから、バンブリーのアムネリスがもっともしっくりくる。全体としても、ラインスドルフ盤は、歌手がすべて適役で、指揮とオーケストラもきめ細かな表情をつけている。オーケストラはロンドン交響楽団である。
 
 次にすごいと思ったのは、「サロメ」だ。前にサロメの聴き比べをやったときには、これは聴かなかった。やはり、私も軽んじていたのかも知れない。カバリエがサロメを歌うというのは、まったく意外なのだが、これがとてもすばらしい。もちろん、絶対に実演では歌わないだろう。スタジオのセッション録音だから実現したに違いない。サロメは、極めて重い役柄であるにもかかわらず、10代の少女である。だから、声は軽いのが望ましい。しかし、強烈な強い表現が求められる。これを両方満足する歌手はなかなかいないのだが、もともと、イタリアオペラの歌手であるカバリエだから、通常のサロメの歌手より、ずっと軽い声で歌っているが、それでもオーケストラを突き抜けて響く強さがある。キャストは
 モンセラート・カバリエ(サロメ)
 シェリル・ミルンズ(ヨカナーン)
 リチャード・ルイス(ヘロデ王)
 レジーナ・レズニック(ヘロディアス)
 オーケストラはロンドン交響楽団である。サロメに必要な頽廃的な色彩感に満ちており、ドイツ系のオーケストラでないことのハンディなどまったく感じさせない。
 特によかった3つのオペラのオーケストラがすべてロンドン交響楽団だったことは、偶然かも知れないが、なるほどとも思った。他のオペラでは、主に歌劇場のオーケストラが使われている。ウィーンフィルのようなトップクラスの歌劇場オーケストラは別として、歌劇場のオーケストラは、どうしても録音した場合の緻密さに欠けることが多い気がする。アバドの「セビリアの理髪師」には、ロンドン交響楽団によるCDとミラノ・スカラ座によるDVDがあるが、(歌手はほとんど同じ)オーケストラは、明らかにロンドン交響楽団の演奏のほうがよい。スカラ座はイタリアオペラの本場であるけれども、やはり、交響曲を普段から録音しているオーケストラのほうが、演奏技術が高いのだろう。このワーグナー、ヴェルディ、シュトラウスという、オーケストラが重要な役割をもつオペラで、ロンドン交響楽団は、実にいい演奏をしているのである。
 
 さて、ラインスドルフは、何故日本で、評論家に無視されたのだろうか。
 考えられる第一は、ラインスドルフがオペラ指揮者であり、しかし、活動の中心がアメリカだったことだ。いまでもラインスドルフのディスコグラフィーを見ると、アメリカのメトロポリタン歌劇場で制作されたCDが多数ある。かなり長い間メトロポリタンの指揮者だったが、現在でこそ、日本でも人気絶大で多数の映像が発売されているが、アメリカでのオペラは、日本の評論家の視野には入っていなかったように思われる。そして、サロメやワルキューレなのに、なぜドイツやオーストリアのオケではないのかという受け取りだ。ウィーン・フィルを指揮したCDもあるが、私が確認したのは、『フィガロの結婚』のみだ。
 第二は、ラインスドルフが極めて厳格な指揮者だったために、あちこちでトラブルを起こしていたことが、否定的な評価になったのではないか。しかし、戦前教育を受けた指揮者では、珍しくはない。トスカニーニが、口汚い罵りを楽団員に浴びせていたことは、有名だ。しかし、戦後は次第にオケのほうでも、権利意識が高くなり、従順に受け入れるのではなく、衝突が起きるようにもなった。だから、長くオーケストラの常任を勤めて、長期的な成果をあげることがなかったことが、日本の評論家に受け入れられなかったのかも知れない。
 
 しかし、いくつかのラインスドルフの演奏を聴いてみて、いかに彼が複雑なオペラを完全に自家薬籠中のものにしていたか、そして、その内的イメージに従って、オーケストラや歌手を導いていく、優れた技をもっていたことがわかった。もっともっと高い評価がなされるべき指揮者であろう。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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