大学入試特別措置から考える改革

 今年もコロナが入試に対して大きな影響を与えている。しかし、入試に対してマイナス要因となる自然の猛威は、決してコロナに始まったことではない。インフルエンザや大雪などは、毎年のように問題となっていた。そういうことから考えると、コロナへの対応は、度を越しているのではないかと思われる部分もある。大学共通テストを前提とした試験なのに、コロナのために二度とも受けられなかったら、二次試験や独自試験で対応せよなどという、可能なのかと疑問になるような措置も、文科省からだされている。入試は、具体的措置については、どのようにやっても、どこからか不満が出てくるもので、万人が満足するやり方などはないことは、理解しておくべきだ。
 
 もちろん、今回の受験にはまったく関係ないが、長期的に日本の大学入試は、抜本的に見直す必要があるのではないかと思う。

 最大の理由は、入試が、日本の青年たちの健全な発達を阻害しているということである。国民の多くは受験勉強を経験しているから、受験勉強によって獲得した知識や技能が、いかに脆いものであるかは、身をもって知っているに違いない。今後の社会は、新しい分野を切り開き、未知の領域に取り組んでいく人材が必要であることは、誰もが認めるところだろう。しかし、少なくともほとんどの受験勉強は、既存の知識を確実に記憶することに中心がある。しかも、将来使うとは思えないことにも、多大な時間とエネルギーを注がねばならない。時間の無駄であるとともに、知的能力のいびつな発達をもたらす面が極めて大きい。そういうと、無駄なことなどはない、かならずいつか必要になるときがくる、などという人がいるかも知れない。確かにそれは否定しない。しかし、必要になったらその時点で学べばいいのだ。小さいときに、しっかり修得しなければ、大人になってからでは遅いという分野がある。ピアノやバレエなどは、大きくなってから初めても、プロのクラスにはなれない。しかし、大学入試で取り組むような内容は、既に大人に近い段階で学んでいるのだから、「臨界期」などは問題ではない。40代になって学び直しても十分なのである。本当に発達するのは、好きな内容か、必要性を認識した学習をするときだから、受験勉強でいやいや学んでも、身にならないことは根拠があることなのだ。
 ここでも、何度か書いているが、日本の入試制度は、国際的にみれば、極めて異例の形式をもっている。日本人は当たり前のことだと思っている入試の形式も、特に欧米諸国と比較すれば、まったく当たり前ではないのだ。そして、残念ながら、欧米の大学のほうが、教育・研究機関として、やはり優れているといわざるをえないのである。端的に違うのは、日本では、卒業後に更に試験がある領域で学んでいる学生以外は、大学に入学すると、途端に勉強量が減るのに対して、欧米では、高校までよりは、大学入学後に、勉強量が増える。勉強しないと、簡単に卒業できないからである。また、高校までの味気ない受験勉強をあまりしなくて済むことも、見のがせない。
 日本の受験の特殊性とは、では何か。
・大学が選抜すること
・指定の場所に、指定の時間集合させること
・高校の成績は、あまり重視されないこと
 ヨーロッパの大陸系の各国では、すべてがこれらの逆である。高校の卒業資格試験の合格が、大学入試資格となる。大学が指定しての集合などはない。高校の成績が中心である。アメリカの州立大学は、基本的にヨーロッパと同じであるが、私立大学は独自入試をすることもあるが、指定の場所に集合させることは、あまりないのではなかろうか。日本人がハーバード大学を受験する上でも、ハーバード大学まで赴く必要はないはずである。
 
 入試改革で一番大切なのは、どのような上級学校への進学条件であれば、高校生は一生懸命勉強するのだろうかということだ。そして、試験か終われば忘れてしまうような学習ではなく、ずっと残り、その後大学の学びや社会生活に生きてくるような学習が実現するかという点である。
 そのために最も必要なことは、生徒たちのやりたい学習を最大限保障すること、そして、卒業資格をもって、進学要件とすることである。そして、高校の成績を考慮すればよい。もちろん、更に、大学共通テストを加味することはありえるのではないだろうか。
 そうすると必ず出てくるのは、一部の大学に集中してしまうのではないかという批判である。しかし、今後の大学教育の方法そのものを変えていくことが必要となる。学生がひとつの大学にだけ所属して、その大学の提供するカリキュラムだけを学ぶというシステムは、極めて不毛であるだけではなく、社会の発展にも即さない。雇用する側が、大学で何を学んだかを基準にして採用していくようにならなければ、おそらく企業の発展もないだろうし、そういう体制になれば、どの大学の所属かは関係なく、複数の大学で授業をとれるようにしていくことが有効である。コロナでオンライン授業が普通に行われるようになったわけだから、それを今後の大学改革の柱にしていくべきなのである。つまり、ハイブリッド授業を標準にしていけば、大学にとっても、学生にとっても、社会にとっても、「役に立つ」大学になるのではないだろうか。
 オンライン授業が標準になれば、大学に受験生をこさせるなどということも無意味になる。
 最も大切なことは、上が選抜するのではなく、下が推薦することである。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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