自民や維新が革新で、社民と共産は保守という見方

 毎日新聞11.28に「維新は革新で共産は保守 有権者の新常識を探る」という記事がでた。遠藤晶久早稲田大学准教授のインタビュー記事である。若者が、自民・安倍首相が革新で、共産が保守という見方をしているという話は、数年前からあった。半分正しく、半分間違っていると思う。もちろん、政治的立場を、保守-革新という切り方だけではなく、右-左、資本主義-社会主義、自助-福祉、権威主義-自由主義等複数の対立軸が可能だ。しかも、簡単ではないことは、こうした対立軸が政党や団体によって、いつも同じように対立しているのではなく、つまり単一ではなく複合的である点だ。
 自民党が全体として保守党であることは疑いないが、しかし、様々な面で革新的であり、ある領域では、現状変更を志向していることも事実である。例えば、選択的夫婦別姓やLGBTs法案を推進しようとするひとたちすらいないわけではない。中曽根内閣から小泉内閣にかけて、公的な企業がたくさん民営化されたが、それは、明らかに「現状の変革」であったから、推進した自民党が改革派で、野党が現状維持派であった。しかし、公共性の高い事業を国有化することは、歴史的にみれば新しいことであり、その意味で民営化は、むしろ革新的反動であり、民営化反対は保守的革新と表現することもできる。

 それでも、社会民主党や日本共産党が全体として、革新であるというのは、少なくとも年配の人や普段から政治に強く関心をもっている人には当然と思われているが、護憲であるという点で現状維持であることも間違いない。維新が、大阪都構想を推進しようとした姿勢や、憲法改正に積極的であることから、革新と思われることも不自然ではない。しかし、そもそも革新といっても、どのように変えるかが問題であって、革新かそうでないかという対立軸そのものはあまり意味がないといえる。戦前「革新派」といわれるひとたちの中心は、むしろ軍国主義化を押し進めようとするひとたちだった。現在では、「反動」といわれる立場に近い。
 また、自由主義(リベラル)という概念も、多義的である。アメリカでは、リベラル以外に、ネオリベラル(新自由主義)やリバタリアンという言葉があって、かなり主張が異なっている。
 ごく最近の政治動向では、天皇制のあり方をめぐって、保守の間に大きな相違が目立ってきた。小室圭-真子結婚をもっとも強く反対したのは、かなり熱心が天皇制擁護派で、そのなかの多くが、将来の愛子天皇を支持しているように見える。それに対して、強固な男系男子派は、非難を小室圭氏にのみ向け、秋篠宮に対しては、今なお公務に励んでいると礼賛する少数派と、無言派に別れている。
 それに対して、リベラルと思われる人は、この結婚を支持し、勇気ある行動と称賛するひとたちもいる。玉川氏などがその典型である。戦後ずっと国民に礼賛されてきた皇族の結婚と同じ感覚で受け取っている。そういう意味では、保守的な対応といえるのだろう。
 
 立憲民主党は、枝野氏が自ら「保守」であると述べ、革新でもリベラルではないのかも知れないので、この際除外しておこう。
 では、誰もが認める左であり、社会主義であり、現在の政治的立場としてはリベラルである共産党や社民党はどうなのだろうか。私は、教育学なので、その点から考えることにしたい。
 社会民主党は、政治的にはほとんど存在感がなくなっており、政策的な影響力があるとは思えないが、ともかくホームページをみてみた。そして、政策、理念、選挙情報等々の欄をみてみたのだが、「教育」に関する文章は、極めてわずかであり、検索用「タグ」としても「教育」が入っていない。「社会新報」と「月間社会民主」の記事紹介に、共に歴史教科書の検定で、文科省が「従軍慰安婦」と「強制連行」言葉を使用しないようにという指示をしていることに対して抗議する文章がふたつずつあったのみだ。普段見たことがなかったページだが、改めて社会民主党という政党の弱体化を感じざるをえなかった。
 日本共産党はどうだろうか。ホームページでみる限りでは、教育に関する政策や見解は、膨大な量の文書が掲載されている。すべて読んだわけではないが、私が見る限り、教育に問題は山積しており、解決されねばならないことが多数指摘されており、多くの人が抱くかも知れない「過激」な見解ではなく、ごく当たり前の提言が並んでいる用に思われる。ほとんどは、子どもにこのような教育環境で育ってほしいと思われることが示されており、自民党とでも、きちんと議論すれば、多くが折り合える内容だといって差し支えないのではなかろうか。
 私が大学で、最初に専門課程の主任教授である五十嵐顕氏の講義で聞いたことが思い出された。政治的争いで公選制教育委員会はつぶれたと言われるが、実態ではそうではなかったという話だ。公選制教育委員会の実態調査をかなり行った研究室の教授たちの結論として、教育委員は、政党母体で選ばれた人が多かったことは間違いないが、実際に教育をどうしていったらよいかという議論を始めると、政党の差はあまりなく、学校をよくしたいというイメージは、かなり共通していたというのだ。だから、教育委員会が政治的に分裂して機能しなくなったのではなく、むしろ、教育委員会の外の政治団体の対立が、教育委員会の存続を難しくしたのだということを、何度も話された。もし、個別に、いじめ、不登校の対策や、教師の過重労働や、過大学級の解消などの対策を話し合えば、現在でも、自民党と共産党がそれほど違うようには、私には思えないのである。
 
 では、何を問題にこの文章で扱いたいのか。それは、若者が共産党を保守的と見ているという点に関して、教育政策のある重要点で、確かにそうだと思うことがあることだ。それは、ICTの扱いである。ホームページをざっと見出しをチェックして、教育のデジタル問題には、ほとんど触れておらず、次の文章を見つけただけだ。
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デジタル教材について――デジタル教材の文字や図表等の拡大機能や音声による読み上げ機能は、弱視や発達障害等の子どもたちの学習を効果的に行ううえでのメリットが認められる一方、子どもの健康への影響、教育効果の程度について多くの問題点が指摘されています。〝デジタル教材導入先にありき〟でなく、関係者や研究者らによってメリット・デメリットをはっきりさせながら、導入する場合は、教員の判断の尊重と、保護者負担とせず公費負担とすることを原則とします。(2019年参院選選挙)
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 デジタル化、インターネット、ICT等々は、社会全体を変革していくことは間違いない。従って、どのように活用していけばよいのかを積極的に考えることは、絶対に必要である。しかし、この文章にみられるように、多くの点で一部よいことはあるが、全体としては、問題があるというような発想で語られるのである。現在、経産省のSociety5.0や文科省のGIGAスクール構想が進展しているが、否定的に扱われている。もちろん、批判すべき点があるとしても、ではどのようにデジタル社会を作っていくのかという構想がなければ、結局、そうした構想に引きずられていくだけである。
 
 保守政党である自民党筋から、もうひとつ革新的と言われる政策がだされたことがある。それは、2000年前後の学校選択である。もちろん、自民党は高校入試の学区制拡大など、選択範囲の拡大政策をとってきたが、公立義務教育学校の選択を提起したことはなかった。そして、学校選択は、それまでの自民党の政策の延長上ではなく、かなり大きな社会変革と結びつく可能性があった。細川内閣で、始めて自民党政権が変わり、その後村山首相を自民党を取り込むなどの変化のあと、小泉首相という従来の考えにとらわれない総理大臣が現れたという流れのなかで、公立小中学校の学校選択という新しい政策が打ち出された。小中学校の通学区は、教育委員会の事項だから、文科省は推奨する立場だったから、東京の一部を除いて普及しなかったが、この政策に対しては、日教組も全教も激しく抵抗した。
 私は、ICTも学校選択も、新しい社会にとって必須のことで、教育革新に相応しいことだと考えていたし、いまでもいるので、「革新政党」や組合の反対は、いかにも残念であったし、また、ある面、彼らの「保守性」を意識せざるをえなかった。
 そして、社民党も共産党も、若い世代が保守的だと感じている最大の要因は、徹底した護憲だということに違いない。もちろん、護憲を支持する国民は多い。そして、改憲か護憲かの対立点のほとんどは9条を意識してのものである。しかし、憲法全体をみれば、やはり、護憲派でも改正したほうがいいと思われる条項はある。教育は26条で規定されているが、26条は時代的には不十分なものになっているから、私は改正すべきであると思っている。その点は、「国民の教育権論の再建」として書いているので、省略するが、革新政党であると自己規定している政党は、憲法についても、革新する議論をしていく必要があるのではないだろうか。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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