同調圧力は教育学的にも、極めて重要な概念であり、「克服の対象」と考えられている。しかし、学校現場では、同調圧力を積極的に利用して、生活指導をしているところが多い。この本は、日本社会の息苦しさの原因を、同調圧力に求め、同調圧力を生んでいるシステムを「世間」と規定して、世間と社会の違いを日本と外国(欧米)の比較を通して分析している。対談なので、かなりラフな議論をしているところが少なくないのが不満だが、興味をもって読んだ。しかし、読み終えて、かなりの不満が残った。私は「愛国者」ではなく、欧米の教育研究者だから、こうした比較的手法を自分で行うが、このような「日本」は問題だらけ、「欧米」はよりレベルが高い、式の議論には、どうもついていけないというか、おかしくないかと感じてしまう。そして、この手の議論は、たいてい、欧米についての大きな誤解が散見されるのだ。
例えば、日本語には、私、僕、俺、自分等々の一人称を示す言葉、あなた、お前、貴様等々二人称の言葉が多数あるが、外国には、Iとyouしかないと出てくる。外国語を英語のみで代用しているのが、この書物の一貫した姿勢だが、欧米でも、他の言語もあるのだ。
フランス語では、tuとvous、ドイツ語ではduとSie、イタリア語ではtuとLei等、多くの言語で、二人称にはふたつがある。確かに日本語より少ないが、相手との関係によって使い分けるという点では同じである。また、I love you.というように、必ず主語があって、目的語があれば、それを明示するとしているが、イタリア語では、多くの場合、人称代名詞の主格は省略する。ラテン語がそうなので、ラテン語の系統の言語では、そうした表現をとるものが少なくない。
確かに英語は、国際語のようになっているが、国際語として使用されているからといって、各国の文化・言語のなかで、英語と同一のスタンスであるとは限らない。なにか英語と日本語の比較で、世界標準と日本の違いを論じられるという前提そのものがおかしいのである。
さて、肝心の同調圧力と社会の問題にはいろう。
鴻上氏は、世間と社会の違いを次のように整理している。
世間とは、現在及び将来、自分に関係があるひとたちだけで形成される世界。社会とは、自分と関係のない人たちで形成された世界。関係のないひとたちとも、お互いに知り合うような関係になると世間ができてくる。
そして、氏が問題にするのは、世間が中途半端に壊れているからだという。かつては、足りないものを融通しあう世間があったが、現在は、世間でもそうしたことが消えてしまったという。つまり、セイフティーネットだった世間がそうでなくなった。
佐藤氏は、世間と社会の定義は同意しつつ、世間が中途半端に壊れたのではなく、20年前から復活・強化されたと考えていると、違いを述べている。ただし、そのあとで、「社会」とは、ばらばらの個人から成り立っていて、個人の結びつきが法律で定められている人間関係」そして「世間」は、「日本人が集団となったときに発生する力学」だと佐藤氏は定義している。佐藤氏の定義の表が載せられている。
社会 世間
契約関係 贈与・互酬の関係
個人の平等 長幼の序
個々の時間意識 共通の時間意識
個人の集合体 個人の不在
変革が可能 変革は不可能
個人主義的 集団主義的
合理的な関係 非合理的・呪術的関係
聖/俗の分離 聖/俗の融合
実質性の重視 儀式性の重視
平等性 排他性(ウチ/ソトの区別)
非権力性 権力性
ただ、これまでの説明でも、ずいぶんと矛盾が出ている。佐藤氏の「個人の集合」であれば、世間ともいえるはずであるし、社会が、法律で定められている関係なら、権力性をもつのではないだろうか。また、このあとの議論で、世間では「平等主義」が支配すると述べてもいる。
私自身、日本社会の同調圧力的性格は、断固として弱体化させなければならないと思っているから、ここで述べられている主張の多くは共感する。しかし、同意できない部分も少なくない。
まずは、自然災害が起こったときに、外国では略奪が起きることが多いのに、日本ではほとんどない、これは、同調圧力が原因であるというのだが、私はそうは思わない。実は戦前の大震災などには略奪だけではなく、暴動などもあった。確かに、戦後、とくに現在生きているひとたちの記憶にある自然災害では、略奪が起きた例は少ない。しかし、東日本大震災や何度かの大洪水では、小規模ながら略奪が起きたという報道もあった。外国などでの略奪と、日本での相違の、最も大きな要因は、日常的な生活物資の充足の相違ではないかと思うのである。日本では、日常的に食べるものにも事欠いている人々は、極めて少ない。とくに、新自由主義的な政策が実施され、格差が拡大する以前は、貧困層も少なく、災害があっても、避難所にいけば、食料や寝所を確保することができるという「安心感」があった。これが略奪が起きない理由だと思うのである。もちろん、同調圧力、つまり、略奪などの犯罪をすると、家族か近隣に迷惑をかけるという意識が働くこともあるだろう。しかし、日常的な物不足に悩まされる層が増大し、また、災害が起きても、避難所に入所できないような人々が増えれば、今後日本でも略奪が起きる可能性は、ないとはいえない。
次の例は、日本の小学生は授業で積極的に発言するのに、中学から次第にいわなくなり、大学生はまったく発言しなくなるというのを、同調圧力で説明している。しかし、それなら、小学校には、同調圧力がなく、上の学校になるにしたがって強くなるということになる。しかし、小中学校で同調圧力が最も強く、高校・大学と次第に弱くなる。大学では、一般的に、同調圧力はあまり効かないのではないだろうか。しかし、最も発言しないのは大学生だ。だから、アメリカの学校では、同調圧力がないから発言し、日本ではあるから発言しないというのは、説明がつかない。日米での「発言」の違いは、同調圧力のためではなく、端的にいえば、「正解主義」の教育にある。
第三の例として、犯罪加害者の家族に関する記述である。日本では、犯罪加害者だけではなく、その家族も非難の的になる。そして、子どもが犯罪者になったとき、親の育て方が悪かったのだというような非難がなされる。それに対して、アメリカでは、家族が誹謗中傷を受けるようなことは聞いたことがないという、加害者家族支援をしている人の話を紹介している。確かに日本では、親の責任が問われることが多い。それは犯罪者が中高年で親がかなり高齢であった場合でもそうだ。それに対して、アメリカなどでは、日本ほどの非難がないことも、確かなようだ。しかし、アメリカで銃乱射事件を起こした高校生の家族を追ったドキュメントを見たことがある。なぜ、そういうドキュメントが制作されたかというと、その家族は引っ越しをせず、加害者の弟も転校せずに、兄が乱射した学校に継続して通ったからだった。逆にいうと、ほとんどの家族は、そうした事件を家族の一員が起こしてしまうと、引っ越してしまうということだった。それは、地域から非難の目で見られたり、非難されるからだろう。その留まった家族は、なんとか地域や学校のひとたちと折り合いをつけるために努力したし、周囲も、彼等のつらい立場を理解するから、地域も受け入れたのだろう。しかし、それは「例外」だったということだ。
程度の差はあるだろうが、何か大きな犯罪をした人が地域で現れたら、その家族も含めて、非難されるのは、日本だけだとは思えない。
アメリカには、性犯罪者を地域社会で公表する法律があるが、地域に住んだ性犯罪者が追い出されたり、暴力を振るわれることが少なからず起こっている。当人だけが非難され、家族が非難されないというのも、ありそうにないと思われる。
同調圧力が強い話題性を帯びるようになったのは、コロナのためであることは明らかだ。したがって、コロナ関連の話題もたくさん触れられている。マスク警察、自粛警察などという現象は、確かに「世間」の同調圧力を感じさせる。
そして、欧米では処罰を伴うロックダウンをしなければならなかったのに、日本では、政府の「お願い」で、似たような効果を生むという点を、両者は欠点としてあげているのだが、私には、この点は欠点とは思えない。処罰を伴わないのに、政府が協力してくれというと、国民の多数がそれに従うのは、少なくとも、外出を控えるというような内容については、積極的に評価すべきではないのだろうか。
さて、本書の最大の疑問は、日本社会にある現象のうち、好ましいと判断するものを「社会」にいれ、好ましくない現象を「世間」に入れるその分析軸だ。欧米では、社会が発達し、日本では世間が支配的である、そのために、日本は集団主義で、個人が育っていないというわけだし、極端な表現をしているところでは、日本には「社会」が存在しないかのような議論もある。しかし、佐藤氏の分類による「社会」が、日本にないということはありえない。
そして、「世間」の現状について、二人は意見が真逆である。鴻上氏は、世間が中途半場に壊れたことが問題といい、佐藤氏は、再強化されたといっている。残念ながら、この認識の違いについては、掘り下げられていない。そして、鴻上氏は、「緩やかな世間」の構築が解決への道だといっているが、他方で、階層に規定された言語である日本語をつかう限り、「世間」に絡め捕られていくという状況があるという。しかし、階層的な言語という意味では、イギリス英語のほうがはるかに強い。日本の方言は地域方言だが、イギリスの方言は、地域方言と階級方言という二次元になっている。話している言葉を聴けば、その人の階層が判断できるのだ。
そう考えていくと、日本と欧米をあまりに対比的に分析しても、解決策を見いだすことはできない。そもそも、一神教のキリスト教、イスラム教と、多神教の日本という対比をする以上、簡単に変えようがない。佐藤氏自身「世間は変革不可能」としているのだから、あまり希望をもっていないのかも知れない。
しかし、簡単ではないとしても、どこをどのように変革していけば、同調圧力による息苦しさを失くすことができるかを示す必要はある。
私の考えを簡単に書いて終りにする。
私は、同調圧力をもたらす世間の要因は、佐藤氏のいうように、1980年代以降(佐藤氏はこの20年といっている)、再編強化されたと考えている。そして、その中心を担ったのが「学校」である。1970年代の学校の「荒れ」を押さえ込むために、小学校から高校まで、管理体制が強化され、それは極端なまでの同調圧力を伴って実施された。スポーツ系部活の強化、そして、先輩・後輩関係の強化(私が中学生・高校のころには、上級生を**先輩というような言い方はしなかった)、制服だけではなく、スポーツウェア、バッグ、ノート類まで学校指定の統一製品を使用させること、統一行動をする学校行事の増加、そして、近年ではスタンダードと称して、行動様式まで統一している。不登校やいじめの深刻化は、こうした同調圧力の強化によって生じたといえるだろう。それは本書の主張と同様である。
ただし、企業社会においては、学校教育のような同調圧力という傾向は、弱まったのではないかと思うのである。以前のような、社宅、企業での旅行、強制的な親睦会、企業でのサークルなどは、確実に少なくなっている。これは、終身雇用がかなり崩れてきたことにも原因があるだろうが、やはり、多様な生活欲求が顕著になってきたために、企業は家族というような強制が働きにくくなっていることがあるのではないだろうか。
本書に大きくとりあげている自粛警察などは、欧米より、日本のほうが規制が緩やかであることの現れと考えるほうが、事実にあっている。ロックダウンを導入した国では、実際に違反すれば警察が取り締まる。しかし、日本では要請だから、実際に守らない人はいくらでもいるし、そもそも、職場もほとんどは仕事を続けている。満員電車もあいかわらずだ。この現象を、日本のほうが同調圧力が強くて、国家権力が自粛を義務づけて、罰則まで導入している欧米より、「息苦しい」というのは、賛成できない見方である。
日本にも欧米にも、世間と社会が二重構造として存在していると見るべきである。社会全体としてみれば、世間による同調圧力は、日本において確実に弱まっていると、私はみている。しかし、学校教育で、意図的に、同一性を強制する教育が行われており、それが、社会に出てからの同調性を温存させている。同調圧力は、やはり、自立的な個人という観点からは、弱体化させていくべきものであるから、学校教育のあり方を変えていく必要がある。では、どうやって、という点については、別稿にしたい。