オリンピックの負債

 オリンピック・パラリンピックが終わって、オリンピック賛成派のひとたちは、反対論に対して、的外れな批判をしている。オリンピックがコロナ感染を拡大するなどといっていたが、そうならなかったではないか、オリンピックが盛り上がることはないといっていたが、テレビの視聴率は高かったではないか等々。
 しかし、私のような強固なオリンピック反対論者は、オリンピックがたとえ「成功」したといっても、やはり、オリンピックには反対なのである。それは「成功」という内容が、極めて限られたもので、その裏にある、より大きな負の遺産がずっと残る構造が、オリンピックにはあるからだ。これから、どんどん出てくるだろうが、オリンピックは、莫大な赤字を生んだ。とくに今回は、コロナのために無観客にしたから、海外からのインバウンドがなくなり、当初期待していたオリンピックによる経済効果が、ほとんどなくなってしまったことも大きいのだろう。しかし、インバウンドといっても、潤うのは一部の業界である。そして、インバウンド効果があったとしても、オリンピック施設のほとんどが、今後大きな赤字を、継続的に抱えていくことが、当初から明らかになっている。莫大な建設費をかけた国立競技場は、現時点で、運営の引き受け手がないという。当初の計画からずいぶんずれてしまったために、非常に不便な競技施設になっている。そのため、いくつかの国際大会には使用しにくいということで、運営管理会社も躊躇しているということのようだ。このような施設は他にもあるだろう。逆に大きすぎるという場合もあり、その場合は観客席を撤去したり、縮小する工事が必要となる。これは、オリンピック委員会が、競技場の大きさだけではなく、観客数にまでルールを設けているからで、オリンピックだから、当然国内大会などと比較して格段に規模の大きなものを求められるが、普段はそんな規模の客が入るものではないし、そもそも、大会など日本では、ほとんど行なわれない競技だってあるだろう。そういう部分は、無駄になってしまう。そっくり取り壊される競技施設もあるようだ。

 しかし、そうした部分からも、甘い汁を吸うことができる業界があるわけだ。この部分では建設業界である。建設業界は、とにかく「建設する」「破壊する」ということで、莫大な利益があり、維持的な部分などは、関係がない。維持費は、多くの場合国民や市民が負担することになる。今後、そうした増税がたくさん政治家たちによって提案されることになるだろう。
 こういう国民にとっては、無駄な利権が絡んでいることが、オリンピック反対の第一の理由である。
 
 第二は、オリンピック選手に対する待遇だ。まだソ連が強かったころは、資本主義陣営のスポーツ選手は、自前か企業、有志の支えでトレーニングを行なっていた。それに対して、社会主義陣営では、ステートアマといって、国家が費用を負担して、有能なスポーツ選手の育成していた。それに対して、資本主義陣営では、あれはプロではないかと批判していたものだ。生活もすべて国家によって支えられていたからである。
 しかし、今の日本のオリンピック選手は、そういう意味で完全にステートアマである。オリンピック強化選手になると生活からトレーニング施設やコーチを保障されている。オリンピック強化選手だけが使えるトレーニングセンターもある。そして、金メダルをとると莫大な報奨金を得る分野も少なくない。以前の日本では、選手は、自分の勤務先をもち、恵まれたひとたちは、その企業から練習時間などに便宜をはかってもらっていたが、勤務を免除されるというところまではなかった。そして、金メダルをとっても、えられるのは名誉だけだった。そういうことではかわいそうではないか、とか、そんなことでは、金メダルは増えないというようなムードが作られて、選手の生活を公費で保障したり、立派なトレーニング施設を作ったり、そして、さすがに国家からの報奨金はでないとしても、スポンサー企業などから、莫大な報奨金が出るようになった。他の分野、芸術や芸能と比較して、オリンピック関連のスポーツ分野の国家の保護は、突出している。
 それだけではない。そうしたスポーツ優遇は、学校教育にも及んでいて、今や学校教育は、すっかり体育中心といってもいいくらいの地域が少なくないのである。もちろん、私もスポーツは好きだが、学校教育における体育は、健康のための体育がメインであるべきで、競争のためのスポーツは、社会体育として行なうべきなのである。競争スポーツが学校教育のなかに大きな位置を占めると、さまざまな面で歪みが出てくる。例えば、スポーツ大会のための過度な練習、大会のための教師の引率、それにより授業の欠落等々。
 
 第三は、現在の国際社会の重要な課題である環境問題、SDGsに反する側面が、オリンピックにはつきまとっていることだ。今大会で大きな問題になったことに、弁当の破棄がある。特にコロナ禍によって、ボランティアの数が削減されたことも影響しているが、膨大な弁当がそのまま破棄された。これは、弁当だけではなく、ユニフォーム、マスク、消毒液、その他多くに及んでいる。これは、決してコロナだけが原因であるというより、オリンピックにはつきものの問題だとされている。
 今後あまり使用しない施設の破壊は、もっとも大きなSDGsに反することだろう。 
 何故使用しない施設とか、その後使用することがないほどの規模を求めるのか。正確にはわからないし、決して真実が明らかになることはないだろうが、開催したい国の政治家や利害集団が、IOCにロビー活動をして、そのような基準を作らせるのではないかと思うのだ。ロビー活動は、すなわち献金することだから、IOCにとっては、おいしい話になる。客席からの収入は、開催国に入るから、IOCにはあまり関係がない。大きな施設によって利益を得るのは、建設業界に他ならない。建設費用は国民が負担するのだから、結局、国民を無視して、一部利権集団のために、国家もIOCも奉仕する、そして、甘い汁を吸うという構造が、オリンピックには抜きがたく存在している。これが、大きな無駄を生んでいることになる。
 
 そして、オリンピックには、倫理に反することが横行しているという点だ。東京オリンピックの招致にあたってつかれた嘘は、当初から知れ渡っていた。福島原発事故はコントロールされている、東京オリンピックは、震災の復興に寄与する、東京の7月8月は、温暖な気候でスポーツのために最適である。もちろん、そんなことが嘘であることは、オリンピック関係者たちにも知られていただろう。だから、それでも東京に投票してもらうためには、決定権のある人を買収する必要があった。東京オリンピックが終わったら、フランス当局は、いよいよこの買収容疑について、本格的な捜査にかかると言われている。前のJOC会長は、不安な気持ちでいることだろう。
 開会式の運営をめぐって、延期後の一年間におきたことは、腐敗に満ちたものだった。オリンピックが高邁な理想によって行なわれているのではなく、単に利益を追求したいひとたちによって行なわれているから起きることだ。
 
 以上のようなことを省みれば、オリンピックなどは、たとえそれが成功したとしても、国民にとっては、大きな負債を残すものなのである。一時的な「感動」をもたらすかも知れないが、しかし、そうした感動は、オリンピックというスポーツ形式でなくても、十分に味わうことができる。だが、他のスポーツイベントの多くは、オリンピックほど腐敗していない。一番の責任者が、「ぼったくり男爵」などと、世界の有力新聞で書かれるようなこともない。オリンピックというイベントが、抜きんでてマイナス面が大きいといわざるをえない。
 どうしたらよいか。オリンピックをやめるのがベストだが、そのよい点を活用するという点では、ギリシャに開催国を固定し、各国が費用を負担して行なうことだろうか。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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