日教組教育制度検討委員会報告(一次)1 教育要求実現が教育的格差を生むとは

 戦後に行われた教育改革は、大きく5つの時期に区分することができる。
 第一は、当然アメリカ占領下において行われた「戦後改革」である。
 第二は、1950年代、米ソ対立、朝鮮戦争を契機とした講和条約に発する「逆コース」という一連の戦後改革の否定と管理強化。
 第三は、高度成長とそれに乗って延びた進学率の上昇への対応が中心となった中教審46答申による改革である。
 第四は、日本の経済力がほぼ頂点となった80年代に、中曽根首相の主導による臨教審の改革。そして、それを引き継ぐ小泉改革。
 そして、第五が安倍内閣による教育基本法改定等に代表される一連の教育改革である。
 これらの多くが「改革」というには多少スケールが小さいが、教育の局面を変化させたことは間違いない。
 第二の逆コースに対しては、日教組などが力で対抗することが多かったが、第三の中教審答申に対しては、大学紛争などの青年運動に刺激されてか、日教組は、全面的な制度改革案を自ら提起するなど、積極的に対案提示を行った。

 臨教審改革に対しては、日教組は文部省と協力関係となり、戦後の教育をめぐる対立関係に大きな枠組み変換が起きた。
 第五の局面に至って、改革の中心は、初等中等教育から高等教育に移り、大学改革から初等中等教育へ改革精神が降りていく様相を呈した。
 それぞれの改革についての評価は、まだまだ定まったものになっているとは思えない。そして、その評価が、将来の教育のあり方の構想にも影響を与えるといえる。
 今後、これらの改革について、順次検討を重ねていくつもりである。
 
 まずは、1971年にだされた日教組教育制度検討委員会の報告書の検討を行う。おそらく、日教組という組織が、まとまった教育制度改革を提案したのは、このときが、最後だったように思われる。その意味でも、この提案の検討は重要な意味を現在でも、もっているように思うのである。
 1971年に出たということは、まだ大学紛争の雰囲気が濃厚に残っていた時代で、私は、本郷に進学したのが70年の秋で、学園祭で「臨時教員養成所の廃止問題」というのをまとめて公表した。この報告書にも、今ではほとんど忘れられた「臨時教員養成所」が問題として取り上げられていたので、少々懐かしい気がしている。
 ところで、1971年は、大学紛争だけではなく、高度成長のひずみが目立つようになった時期で、教育面では、私たち団塊の世代が大学入試を通過し終わった時期だった。しかし、その過程で東大と東京教育大の入試が一度なくなるという問題も起きた。とにかく、激しい受験競争が起き、高校全入運動が提起されていた。そして、その高校全入運動こそ、「国民の教育要求」の象徴でもあり、この制度検討委員会報告書のすべての「出発点」であった。したがって、まず「国民の教育要求」の検討から始める。
 高校に行きたい、しかし、高校の定員は、それに不足している。また、政府や財界は職業高校を増やす政策を押し進めていた。富山県では普通科が3で、職業科が7という割合を強行して、普通科にいきたいというひとたちにパニックのような状況が起きた。そして、激しい反対運動が起きたのである。つまり、国民の多くは、普通高校に行きたいという要求として、検討委は捉えた。
 単純化すれば、政府・財界の高校多様化政策(職業科を多数設置)と、検討委の普通科重視政策とが対立していた。しかし、検討委は職業教育を否定しているわけではなかった。
 
 出発点である国民の「教育要求」は進学要求で顕在化していると理解されていた。もちろん、それだけではないとしても、進学要求は明示的に数字で表される。しかし、受験競争の要因でもあり、合格と不合格で明確な線引きが行われ、また、学校のランク付けという格差を生みだしている。不合格になった生徒の絶望も結果としておきる。検討委は、そういう激しい要求を「当然であり、必然であり、健康でもある」と位置づけている。実際に、1960年代に、高校進学率も大学進学率も上昇した。そして、この報告書のあとも、上昇を続け、この時期に行われた「高校全入運動」は、進学率という点からみれば、間もなく実現したし、現時点では、大学全入も実現している。数値からみれば、国民の教育要求は、実現したのである。
 しかし、実際には、受験は競争だから、勝敗を生み、ランクの低い高校への合格者、職業高校に不本意入学する者、就職する者というように選別されていき、既に、社会的差別構造を生んでいた。当然で健全な要求が、差別構造を生んでいるという状況を回避する構想を、検討委は示さなければならない。
 検討委が依拠するのは、戦後改革の高校三原則である。高校三原則とは、「総合制・男女共学・小学区制」で、ひとつの地域では、ひとつの高校で全員が学び(小学区制)、そのなかに普通科目も、職業科目もあり(総合制)、男女共学であるということだ。これは、戦後教育改革を実施したアメリカの高校がそうなっているので、導入されたものだが、中途半端にしか実施されなかった。というよりは、文字通り実施された自治体は、京都など、ごくわずかに過ぎなかった。とくに関東より北は、全部無視だったといえる。ひとつの学区に複数の高校があり、別学で、普通科と職業科は分かれていた。現在でも、改定されたのは、男女別学の高校が、いくつか共学になったことのみで、小学区制は全く実施されておらず、総合制は、ごく一部の高校で実施されているに過ぎない。
 アメリカは、地域によって違いがあるが、典型的には、高校の途中まで義務教育でもあり、入試がない。そして、地域の高校でほぼ全員が学び、かなり膨大な科目が揃っていて、職業教育も受けられるし、普通科目も、様々な種類・レベルのものが揃っている。そのシステムを、報告書は採用したいと考えたと思われる。
 つまり、この点での検討委の提案は、現実にはまったく採用されることはなく、むしろ逆の方向が定着した。唯一、公立高校の共学化は進展したが、むしろ、ランクの高い私学は、ほとんどが別学を維持している。
 このことは、どう考えるべきだろうか。(つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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