和光の教育を考える2 丸木政臣氏は何故インクルーシブ教育を始めたのか

 「丸木政臣教育著作選集第4巻学校論」(澤田出版)が届いたので、読んだ。そして、障害児教育の開始と経過について、詳細というわけではないが、ほぼ理解できる程度に書かれている。非常に興味深い内容だった。しかし、小山田圭吾氏のいじめ関連については、元著作が1992年ということもあり、まったく触れられていない。当時からいじめはあったとも思われるのだが。
 丸木が、熊本の教師から、和光学園の教師になったのは、1955年である。1941年に熊本師範学校にはいり、43年に繰り上げ卒業、予備士官学校入学、そして、鹿児島で沖縄派遣軍にはいり、一端沖縄にいくが、東京に戻された間に敗戦となった。教師になったのは1946年であるから、戦後の教育運動を担った多くの教師が、「再び教え子を戦場に送るな」という思いをもったのとは異なる。教師としての戦争体験はなく、自らの戦争体験と、友人が無為の戦死をしたことなどによる「平和教育」が、彼の教育意識の土台となっていた。それは、和光学園の教師になっても継続的に、沖縄訪問等々の平和教育として実践された。

 ここでは、そうした面ではなく、和光学園の校長として、障害児を通常学級に受け入れた経緯を中心として考えていく。(以下引用の数字は、上記著作選集のページである)
 丸木は「まえがき」で、芸能人の子どもが多く入学していることを書いており、文化祭が盛んであると誇っているので、1990年代初頭から、すでに現在のように芸能人の子どもが多くいたことがわかる。(231)しかし、なぜ、いつごろからそうなったのかは、書かれておらず、芸能人関連の記載は、まえがき以外にはない。これは、和光学園の教育の質転換(があったとすれば)にとって、大きな意味をもつので、別途資料を探してみるつもりだ。
 丸木が和光学園の教師になった1955年に、既に和光学園に小児麻痺の子どもと知恵遅れの子どもがいた。(202)小児麻痺の子どもは、周囲に敵愾心をもっていて、ほとんど同級生と交わらず、教師にも心を開かなかったので、丸木はいろいろと試みたあと、その子が唯一興味をもっている鉄道に着目し、自分も鉄道を趣味とすることにして、対話を図った。そうすると、丸木に打ち解けるようになり、自分が撮ってきた写真をなどをみせたり、非常に細かい知識を披露してくれる。そして、高校を卒業して、当時秋葉原にあった鉄道博物館に就職して、その後生き生きと生活をしただけではなく、正月に丸木宅に卒業生が集まる会には、真っ先にきて最後までいるというほどのつきあいになったそうである。しかし、知恵遅れの子どもは、そういう関係が作れず、結局やめていったそうだ。
 ただし、そのふたりの障害児は、学校の方針として受け入れていたわけではなく、おそらく個別の事情があったのだろう。丸木が校長になって、系統的に障害児を受け入れるだけではなく、健常者と一緒に学ぶシステムを提案したのは、ふたつの契機があった。
 ひとつは、中教審の1969年の答申(学校制度の総合的な改革を提案した、いわゆる46答申)への対抗案としてだされた日教組の教育制度検討委員会の提案のなかに、共同教育があったこと。そして、その後の流れとして、都道府県に養護学校設置義務を課すことになったことである。(299)
 こうした動きを受けて、1クラス2名まで障害児を受け入れることを、校長として提案したのである。そして、その際「共通項」を重視したという。
 共通項とは、要するに健常者と一緒に学ぶことができる内容のことで、これがまったくない場合には、受け入れても効果はないことになる。共通項が、どの程度固定的、あるいは流動的・柔軟に考えられていたのかは、詳述されていないのでわからないが、とにかく、共に学び、ときには、障害児のほうが健常児に教えることもできる、というようなことを重視したわけである。それには、「出口」問題が大きく影響していたと、丸木は説明している。
 つまり、和光学園は、幼稚園から大学まである総合学園で、内部進学がかなり認められているが、希望者全員ではない。つまり、絞られる生徒もいる。そうすると、障害児は、和光学園ではやっていけても、外部の学校に進学するには困難であることが多くなる。和光大学は、大学なので、大学の授業についていけない者は受け入れない。そうすると、高校を卒業させる生徒が、大学の授業についていけないというのでは、高校教育そのものに問題があることになってしまう。だから、「出口」が困難な生徒は「入口」で制限するという。それが「共通項」の考えを裏から規定しているように思える。
 
 さて、もうひとつ興味深い内容がある。それは、受け入れる障害の領域の変化である。
 おそらく、当初は試行錯誤で、いろいろな障害を受け入れたのだと思われるが、そのうち、視覚障害者は大学への合格者が多いが、聴覚障害者は少ないことに気づいたという。大学教員としては、視覚障害者よりも、聴覚障害者のほうが合格者が多いと思われるし、実際に、聴覚障害者の学生のほうが、私の勤務校では多かった。そして、聴覚障害者のほうが、大学側の負担が軽かったと思われる。更に、視覚障害者は、事前の了承がないと、試験の準備そのものが不可能だが(問題文の点字訳と点字解答の文字訳が必要となる)、聴覚障害の場合には、通常受験して、入学後、配慮の申請がでることが少なくない。
 丸木は、元来、情報量が聴覚情報より、視覚情報のほうが少ないので、視覚障害者のほうが不利の度合いが小さいのだろうと推定しているが、私には、かなり疑問である。(302)逆ではないだろうか。
 そうして、その後は、視覚障害・精神障害・肢体不自由・病弱の者は受け入れるようにしたが、微細脳障害・自閉症・情緒障害・学習障害は受け入れないことになったとしている。そして、まとめ風に、障害者を受け入れることのメリットは何か、という保護者の問いに対する答えとして、「チャレンジ精神」をあげている。
 
 前回の「和光学園の教育を考える1」では、2016年の「障碍者差別禁止法」によって、受け入れる姿勢が変化したという、和光学園の説明を受けて、ここで、事実上、障害者の受け入れをやめたのではないかと書いたが、その前に、丸木の時代にすでに、変化があったことがわかる。
 確かに、丸木が受け入れることにしたという「視覚障害・精神障害・肢体不自由・病弱」は、特別な配慮が必要である。視覚障害は、点字で教材を準備する必要がある。これは生徒たちのボランティアグループに頼んでいたようだ。肢体不自由のためには、車椅子を可能にする建築条件を満足しなければならない。精神障害や病弱に対しては、医師等の援助が必要となる場合があるから、医師との連携が必要である。丸木のこの本では、もちろん、現在でもこれらの障害児を受け入れているのかはわからない。学園の説明でも、一緒に学べることが条件となっているだけだから、実態は、現時点では私には情報がない。おそらく個別に反対しているのだろう。(今後更に調べてみるつもりだ)
 そして、受け入れをやめたという「微細脳障害・自閉症・情緒障害・学習障害」は、現在、多くの公立小中学校に在籍している。そして、現場の教師たちが、頑張っている教育である。これを読むと、なにか一見大変だが、条件を整えてしまえば、必ずしも教師の負担は大きくはない領域で受け入れ、軽い障害のようにみえるが、実は、介助がないと極めて大変な領域を、公立の学校が引き受けていることになる。公立の学校は、義務教育(国家が義務として引き受ける教育)だから、それは当然なのかも知れない。しかし、和光学園は、障害者を受け入れていることを、誇りとして提示している。何かすっきりしないものを感じるのは、私だけだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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